日和佐八幡神社・秋祭りの太鼓屋台の彫刻を見て、あれやこれや言ってやろうという企画の第三弾。
今回は、「西新町」であります。
西新町は、現在の桜町の屋台から“暴れ対策”として重く作り替えられました。素材は黒檀で、よく戎町と一位二位を争う重さであるといわれますが、おそらく骨格や材質上、西新町の方が重いのではないかと思われます。
さすが二代目というのか、時代の雰囲気とでもいいましょうか、太平楽な時代を引きずった可愛らしいものではなく、かなり厳つくて洗練されたデザインであります。
それでは詳しく見て行きましょう。
年の瀬も迫っておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
前回・東町からはじめました、彫刻を見て、あれやこれや言ってやろうという企画の第二弾。
今回は、「桜町」であります。
秋祭りが終わって、みなさま燃え尽き、熱気はトーンダウンしたころかと思いますが、このブログは飽きもせずにやっております(汗
今回は、彫刻について。
いつだったか、奥河町の全面・唐獅子牡丹について書いたら、ちょっとだけ反響がありまして、もう全町穴が開くほど見てやろうという趣旨であります。
そんなこんなで東町。
うちの彫刻が一番ショボイ――、などと関係者の口から自虐的にしばしばきこえてくるのですが、確かに正面は他の町よりもあっさりしている感じです。
一方、後ろはそうでもなくて、印象としては、全面のみあっさり彫刻であります。
おそらくこれは、しめ縄を〆たときのバランスを(たぶん)計算した彫りになっていて、手抜きというよりは、そういうものだと思った方がよさそうな^^;
ちなみに、横面には、漁師町らしく暴れ狂う大海原の波。
こうしてみると、やっぱり、全面だけしめ縄を避けるようにして彫られているのがわかります。
正面と後面は、たぶん鷲と鷹。後面には松があるので、後ろは鷹だと思います。
鷹と鷲は、武士たちに好まれた力の象徴ですから、いまよりドギツく暴れん坊だった昔の漁師町的性格から察するところ、そういうことだと思われ・・・。
横面の鳥は、後から付け足されたのかデフォルメされて定かではありませんが、これがトンビだったら、鷹の仲間が勢揃いです♪
ちなみに、このブログを書いている人が好きな東町の角度は、横から見上げること。
なにせ、ちょうさの勇壮さや力強さ、妖しさというのは、子供の目線であると思っていて、真正面とか神事の最中に鳥居の内側でカメラを構えたりするのはものすごーく違和感があるわけです。
横から見ると、以前の隠し額でふれたように、太陽(アマテラス)と月(ツクヨミ)があって、その下に波打つ大海原(スサノオ)があると、三姉弟が揃った感じに。
まさに、みはしらのうずのみこ=三貴子みたいですね。
ここから、房が勢いよく揺れているのを見ると、実に縁起がいい感じですが、ほとんどカメコはいませんから、ベストポジションいただきであります(^_^)v
先日、娘さんが日和佐の秋祭りの応援隊?に参加予定だという某方から祭りに関して「注意することはないか?」と訊かれた。
このサイトの作者は、日和佐の秋祭りに直接かかわっていないし、まして日和佐に住んでもいない。
だから、そんなこと訊かれても・・・などと思いつつ、女の子は「ちょうさは担がない、触れてもいけない」と当たり障りのない話をしました。
すると、小さな女の子は触ったり乗ったりしているのはなぜか?という話になったので、幼児は男も女もないし、そもそも氏子でもないからええじゃないか\(-o-)/
と、ふんふんなるほどと、話は終わった。
そういえば、世の中にはお神輿や太鼓屋台を女が担いではいけないことがどうしても理解できない人たちがいて、それをことさら差別だの平等だのとジェンダーフリーにて騒いだりする。
この漫画の作者は、決して男尊女卑の発想はないし、日本は長い歴史の感覚からして母系国家であるとも思っているくらいであります。
染色体的にいっても、男は女の出来損ないで、股の付け根から飛び出したものを見ても明らか(-_-;)
けれども、男と女は同じ人間である以前に、別の生き物で、生き方に役割があるから、その役割をフラットにすることが善であるとは思えないのであります。
女が神輿に近づくことを「平等」と呼ぶ人たちは、おそらく「画一」主義者だったりするわけで、そういう人たちはえてして、比べられないものを平準化に努め、比べるべきものを価値の相対化でお茶を濁すような、バランス感覚がちょっと乏しかったりする。

昔から女人禁制とするものには、女が触れると汚れるとか、カミ様が嫉妬するとか言われていますけれど、やはり体力的なものから母体保護の観点が主たるものだと思います。
これらを安易に伝統などとは呼んだりしませんが、伝統とは立ち止まって振り返り、あれは何だったか?と過去に問うてみることだと思う次第で、それを過去に問うならば、やっぱり神道の感覚からして、本来に逆らうと良くないことが起きるという歴史の叡智をそこはなとなく体現しているだけでOK牧場なのであります。
いうなれば、こういうバランスの何たるかを示唆してくれているのが伝統だったりするのかな(ΦωΦ)
権利というのはルールによって、なすことを認められている自由の可能性でありますけれど、そもそも伝統にはルールなどないわけですから昔からやっているあれこれに平等意識を持ち込むほうが不思議な感じなのであります。
ムズカシイことを言えば、布団太鼓とは、五穀豊穣を祝うもので、藁を積み上げ、田んぼを表現している屋台であります。そして、田んぼというフィールドにはパワー(力)が必要で、それは元来男の役割で、それは「男」という漢字をみたら一目瞭然。
一方、穀物をカミ様に捧げるというのは大昔から女の役割でして、アマテラスの食事係のトヨウケノオオカミやお稲荷さんのウカノミタマノカミ、徳島のオオゲツヒメだって女のカミ様なのであります。(※全員、穀物神)
日和佐にかぎらず、ちょうさ(布団太鼓)にメスが多いのは、五穀豊穣を祝い感謝する女を男が担ぐという意味合いからして、疑問のはさみどころのない形なのであります。
まあ、心情的に、メスの太鼓からしてみれば、女に担がれるよりも男に担がれたほうが気分がいいと思います。
長々と書いてしまいましたが、こんなことは日本に住んでいる者の“コモンセンス”として、どうにかこうにかご理解ください(TдT)
では、おわり。
そのうち配布予定のポストカード。
かしらかしらご存知かしら。
昔の奥河町の天幕は、白かったんですわよ( >д<)、;'.・ ィクシッ
他の町も、旗が若干違いますよね。
中村町のTさんいわく、旗は大昔から掲げていたのではなく戦時中の国威発揚の名残かもしれないとのことでした。
なるほど、でも70年前の戎濱には既に掲げられていましたから、日清日露戦争のころは、どうだったんでしょうかね?
伊座利みたいに、写真はなくても絵で残っていたりしたらいいんですけどね(^^ゞ

ところで、昔の写真をたくさんご提供いただいたので、こっそりアルバムを作ってみました。
色キチの戎濱とか、たいへん貴重な思い出であります。
徳島大学総合学科の学生さんが、2012年の卒業論文に日和佐の秋祭りを取り上げていたので読んでみた。
一見、当たり前のことのように思えましたが、こうやって知識体系化されたものはなかったので、大変興味深いものでありましたm(__)m

この記述と写真は決定的に違うけど――、まあいいか。ちゃんちゃん♪

と、終わってしまうと後学的にどうかと思うので、心を鬼にして、つついてみたいと思います。
とはいえ、これを書いている人と概ね理解は同じなのですが、水との関わりについていい線までいっているので、沖縄のニライカナイ信仰とかを掘り下げて日本人の感覚を語ってほしかったのと、ワープロのせいかもしれませんが、カミ様を「神」と書いている時点で、一神教でいうGOTっぽい捉え方なのが腑に落ちなかったり。
このブログでは、一応、神のことを「カミ」と表記しているのは、そういった事情からであります。
そんなことはさておき、今後いかに継続していくべきか?という問いに関しても、少し違う意見をもっております。
論文では、祭りや共同体の衰退を総じて人口減少という切り口でしか語っておらず、推移も鵜呑みでフィールドワークが活かしきれてないのが残念。地元の方も取りこぼしてきたであろうと虫食い状の資料もそのまま。
あまりいうと関係者に怒られそうなのですが、日和佐の人口は役場発表のものの半分くらいだと思ったほうがいいでしょう。
これは、消防団が日々、足で調べた日和佐の実態でありますし、いつまでもジリ貧政策をとり続けて居心地のいい人たちがいることや、おかしげな施策に対して物申す町民オンブズマン的な人たちのなさが、町の衰退を加速させる核になっていると思うわけであります。
居住者を獲得するにしても、家主が物置代わりに貸さないし、貸しても補助金まみれの誘致に終わったりして、結局、こういうことを悪者になって言ってくれる人も不足気味。
問題発言をしますと、祭りというものは、半分は氏子のためのものであり、産土神社への奉納っぽい性格でもあろうから、外部から人を呼んでくる必要はないかと(-_-)
これを「閉鎖的」と呼ぶならば、どこか認識が違っていて、例えば、見ず知らずの人の、親戚の人の、実家で、飛び入りの誕生パーティーに参加するほどの違和感が(~o~)
まあ、あくまで原則論ですが・・・。
保存会の方々のインタビューでは、「変わらずにいるためには、変わらなければいけない」と、イタリアだったか「山猫」という映画のセリフみたいなやりとりがあります。
それは、一面の真理でしょうけど、論文のように、人手不足の解消をPR不足と直結させ、閉鎖性の排除や説明責任、交通の便にもってゆくのは、何かが違うなと思ったわけで、それよか、町を離れた地元出身者に効くような泥臭い取り組みの方が、共同体というものは、生きてくるように思うわけです。
読まれている方は、ずいぶん堅物な奴だと思われるかもしれませんけど、「型」のみが残った伝統など、伝統を壊す作用しか生みませんし、運行を至上主義に据えて外国人や女の子に担がせることを良しとしてしまうくらいであれば、断腸の思いで、幕を下ろしてほしいと傾いてゆくかもしれません。
これは、乱暴な持論なのですが、文化伝統その他もろもろ、継承していくためには、どこかに政治がいるんじゃないだろうかと常々考えている次第であります( ゚Д゚)y─┛~~
おわり。←けっこう真剣に考えているので怒らないでね☆彡
太鼓台は宇宙山。
などと壮大なことを神戸芸術工科大学(アジアン・デザイン研究所)の論文にかかれているという紹介をうけて、ちょっくら読んでみましたよ。
すみませんm(__)m
感想は、(´ヘ`;)ウーム…といった具合で、調べすぎて恐ろしくこじつけ感が満載な内容にたじたじ。
いろいろと説はあるんだろうけど、無理やりアジアとか宇宙と結びつけたりして、何か大事なことを忘れてはいませんかね。
太鼓台がカミの依代であるとか雨乞いの道具であったという理解は同じなのですが、そこには一神教の神とか仏という存在が中心にあって、まったく日本的な神事の道具として捉えられていないんですよね〜。
ここは八百万の国であるぞよ!
だからか、太鼓台を古代インドの世界観の中でそびえる山・須弥山(しゅみせん)といってみたり、山鉾を宇宙樹、臨時の依代である神籬(ひもろぎ)を横文字のアジアンテイストにしてみたりで、おのず、「生命樹」とか「宇宙樹」という結論に。
いやいや、太鼓台は、稲作的な意味合いで田んぼを連想する方が、日本的でありましょう。
だからニニギノミコト天孫降臨の地である宮崎で四つ太鼓が始まったのではないですかね。
しかし、論文には、神社とか神道の成り立ちがすっぽり抜けていたりして、あえて言うならば、形而上学に与しすぎなのが、そこはかとない違和感の正体であるのかもしれません。「道徳→宗教→形而上学」という一歩手前で踏みとどまる健全な精神が置き去りにされていて、やれアジア々々と繋いでいく手法に権威主義がぷんぷんであります。
なにせ、太鼓屋台文化圏としては、一番中途半端であろう瀬戸内のそれをベースに、インドやイランに逆回転したところで、そりゃあ、文明の終着点である日本とは通ずるものはあるでしょう。
それをあたかも新発見のように無理やりこじつけて「宇宙だ!」という結論になると、日本的な感覚や叡智でもって論じられているのかと心配になったりならなかったり(-_-)
おまけに、全ての太鼓台は仲間だと言いつつ、確信はないが須弥山だという曖昧さの中には、稲作の藁を積み上げるというイメージがどこにもないじゃないですか( ̄□ ̄;)!!
これを書いている人の結論としましては、讃岐系ちょうさの言い分とたいして変わらない説だと思った次第で。←関係者の方、怒らないでね☆彡
おわり。
ずっと調べておりました“寺込のだんじり唄”。
寺込の人に訊いても「知らん」「知らん!」とけっこうお手上げ状態だったのですが、役場の事業で作られたというビデオに記録されておりました(^O^)
意外とあっさりな感じであります。案外、取りこぼした歴史なども情報提供を呼びかければ、ぽろっと出てくるのかもしれません。
提供いただいたTさま、どうもありがとうございますm(__)m
唄っていたのは、伊勢音頭やたたら節などらしく、このビデオでは、「たたら音頭七福神」の唄。実に名調子であります。
この類は、徳島県南地域でよく唄われていたらしいのですが――、詳しいことは、また後日。
お久しぶりです。こんにちは。
この文はメモ書き程度のものなので、あまり真に受けないでお読み下さい。
いま、中村町の紋「二つ巴」の意味を調べていて、太鼓の位置関係ではなかろうかとか、いろいろと勝手な想像を巡らして遊んでいるわけでありますが――、

やっぱり真相はわかりません(´・ω・`)ガッカリ…
深く考えると、大変そうなので、戎濱(丸に違い鷹の羽)のように忠臣蔵にあやかって“二つ巴”にしたのではないか?と赤穂大石神社の紋を眺めてみたりみなかったり。
山鹿流の太鼓が日和佐太鼓にところどころ似ているように聴こえたりするのは、(フィクションらしいですが)陣太鼓をイメージしているのではないかとか思ったわけです。
三つ巴が戦いの紋だとするならば、陣太鼓は二つ巴という関係は意外としぜんなわけでして、奥河町のちょうさに「三つ巴」が付いているのに打子には「二つ巴」であるというのが、そういうルーツを垣間見ているよう。
もう一つ、難しく考えてみると、中村町は額に町名ではなく「八幡宮」と掲げてしまうほど、たぶん八幡神が大好きな町であると思うので、その延長線上をカーブしただけかもしれません。
八幡神というのは、神仏習合のいろんなカミ様の集合体でして、日和佐八幡神社も、
という感じに祀られております。
神話をつつき出すときりがないのですが、妊娠中でも戦う神功皇后とその息子の応神天皇。
諸説はいろいろありますが、ワンピースの登場人物であるルフィの兄・エースみたいな生まれ方をしていて、そのさい、腕の肉が弓具の鞆のように盛り上がっていたそうです。
巴の模様は、鞆からもきているそうなので、武神として八幡神であるわけがわかります。
他、妻神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)(神武天皇の御母后)も祀られておりますが、玉依姫命は海の神の娘でして、神武東征の際に先導役となった海の神=塩椎神(しおつちのかみ)だとされております。
この塩椎神(しおつちのかみ)が武角身(たけつのみ)とたぶん同一人物でありまして、鴨族の祖を指していると思います。そんでもって、鴨族=葛城氏のことでありまして、その家紋が「二つ巴」なのでありました。
だから、中村町の紋のルーツは、玉依姫から鴨族までさかのぼり「二つ巴」を掲げているのではないか?!
という勝手な説の出来上がりであります。
過去のブログ記事に、
と偉そうなことを書いております。
もうちょうさの話でもなんでもないのですが、この鴨族のルーツは百済からやってきて、愛媛の大三島に上陸、後に関西の方に分流していったとされております。
だから、四国の布団太鼓は、愛媛から香川にかけてなんとなく九州っぽい雰囲気。
対して、徳島の布団太鼓は完全に大阪のものであるにもかかわらず、中村町のちょうさのトンボだけが、讃岐系と同じ結びなのがおそろしく謎であります。

(讃岐系っぽい結び)
もしかすると、中村町のちょうさは、鴨っぽい影響が入った町、もしくは住人によって設計された屋台なのかもしれません。
いずれにせよ、トンボの形にルーツがありそうということで、今日はここまでm(__)m
いつも思っていることなのですが、日和佐のちょうさ(布団太鼓)は、あまりにも全国の布団太鼓とことごとく違う感じがしております。
かき棒の組み方にはじまり、拍子の取り方、台座の低さ、全町違うカラフルな布団などなど、大阪とも堺とも違うその構造的な特異性が、正体にモザイクをかけている感じに。
おかげさまで、調べれば調べるほど解から遠ざかっていくという八方ふさがりな状態であります(~o~)
それは、もちろん日和佐が漁師町で、海に入ることを前提に組まれているからに他ならないのでしょうが、そもそも、なぜに農村系の祭りを漁師町が採用したのでしょう?
憶測で言えば、日和佐にちょうさを持ってきた谷屋甚助の感性によるものが大部分を占めると思います。
なぜなら、昔の人はあれこれ論理的には考えたりせずに、歴史によって培われた常識によって物事を判断していたからであります。
だから、案外、大阪で奇妙な形の屋台を見て、
「布団太鼓、超Σd(゚∀゚d)イカス!」
といった物珍しさだったかもしれません。
さておき、
そのちょうさ(布団太鼓)は、本当に合理的な形をしているなぁ〜と思います。
トンボは雨雲、房は雨を表し、おまけに水のカミ様の使いである竜の布団締めや彫刻までもあしらう。
大阪の方へ行くと「べーら べーら べらしょっしょい!」という掛け声もあったりして、これが農村系の祭りであることを証明していると思います。
「べら」とは「米良」つまり、良い米=豊作を表し、良い米ができたぞ!ワッショイワッショイ♪というニュアンスが鈍って「べーらべーら」となっているのだと思います。
東大阪のとある中学校の学校通信(プリント)に、昔は米を奉納するのに赤の幕と白の水引をつけていたことから、太鼓台の布団には「赤」、布団締めは「白」が採用されていったと書かれていました。
真実かどうかは知りませんが、現地の年寄りの話が盛り込まれているので、とても本当くさく理解しました。
だから、全国の布団太鼓(ちょうさ)は赤が多い!!ということでしょうか。
また、以上のことから、豊作を祝うことの他にも、布団太鼓(ちょうさ)は、雨乞いのための道具であったのかもしれません。
そう考えると、水不足でお悩みの讃岐のちょうさなどは、これでもか!というほど大きな竜の刺繍を太鼓にあしらい、布団を締めているのか覆っているのかわからなくなるほど、切迫した危機感が見て取れる感じの仕上がりに(ToT)
讃岐系ちょうさの解説文を見るに、原型は京都の祇園祭で、瀬戸内経由で伝わったとされております。ですが、なぜにそういうことをやっているか?という思想や信ぴょう性が薄くて、単に綺羅びやかさを求め、東に行くほど小物という扱いが多いように思います。
ここでもう少し深堀りしますと、これも仮説ではありますが――、
布団太鼓の起源は、宮崎県や愛媛県に見られる「四ツ太鼓」かもしれないとのこと。
四つ太鼓とは、簡単に言うと、布団のない太鼓屋台みたいなものでしょうか。
分かる気はします。
「稲作の方法を教え、国を治めよ!」と命を受け、ニニギノミコト天孫降臨の地である宮崎県から豊作を祝う祭りが始まったのは理にかなっているし、廻船の発達とともに四国(愛媛)にもソレが入ってきたとも想像できます。
なにせ、四つ太鼓をかき上げるさい「ヨーンヤッサイ!」というのは、愛媛や香川の「ヤッサイヤッサイ!」という掛け声と似ているからです。
香川の方は気を悪くするかもしれないので、小さい声でいいますと、四つ太鼓の担ぎ棒を長サイ棒(ちょうさいぼう)と呼ぶそうで、“ちょうさ”という呼び名は、張さんを讃えるというより、ここからきているのではないかと思います。
広島の布団太鼓のチョーサイもおそらく、この流れの理屈ではないでしょうか。
一方、日和佐はどうか?と言いますと、まぎれもなく堺からダイレクトに伝わっているので、讃岐系のちょうさとは別物であると思います。
讃岐系のちょうさが、九州南部のソレが愛媛とか瀬戸内経由で入ってきたとすると、その根拠は、【カモ氏(鴨・賀茂・加茂)】の祭祀にかかる、大三島の大山祗神社の支配下に置かれた祭りの遺構と考えられるとのこと。
確かに、大阪のものとは大きさや雰囲気があきらかに違うし、災いを払うために始めた祇園祭とは、まったく背景が違っていて、いずれにせよ、日和佐のちょうさは、瀬戸内・四国のソレとは別物であると思えます。
そして、これらの祭りは、1800年頃に広まったということ。
大阪・堺では、江戸中期(1651〜1745)から布団太鼓があったという資料もあり、やっていることは同じでも発祥は、また別物だったのではないでしょうか?
なにせ、四つ太鼓説を採用してしまうと、日和佐・戎町のちょうさは、それよりもはやく存在しているわけでして、年代的にどうもおかしい。なので、やっぱり大阪発祥のものを取り入れたと考えた方が自然で、歴史においても、まったく関係のないところで同じようなことが起きるという「百一匹目のサル」現象にて理解した方がスッキリしそうな感じです。
つまり、都会の子も田舎の子も、誰に教わったわけでもないのに、同じようなことをして遊んだり感じたりして成長するように、文化とは、何の接点がなくとも繋がるときは繋がってしまうものではないでしょうか。
以上のことを勘案し、冒頭に戻りますと、日和佐は漁師町なのに農村系の祭りを取り入れて、独自の進化を遂げ、「ちょうさ」という型をいじり倒している稀な町であると思います。
あれだけ大阪に憧れているのに、ちょうさの大きさは中型で、当時は裕福だったにも拘らず彫刻は控えめ、房も小さく、雌の太鼓なのに雄のようなシンプルさは、あきらかに機動性重視の日和佐特有の事情といえるでしょう。
しかも、漁師町のせっかちさからか、ほとんどの布団太鼓が四拍子で足並みを揃えて担ぐのに対して、日和佐は二拍子で好き勝手……。
と、あれこれと書いてしまいましたが、つまり、日和佐のちょうさは狭義のソレには当てはまりませんが、広義という制約のなさから、目的外使用の連発にて、ちょうさ(布団太鼓)界でも稀な姿形になっていったような気がします。
まとめ(真に受けないでね☆彡)
日和佐の布団太鼓は、目的外使用による水陸両用ホバークラフト的な屋台で、大阪発祥、独自カスタム。
呼び名も、大阪方言の掛け声から。
結論すると、他所と比べても何も得られないので、もう「日和佐型」と呼ばせてくださいm(__)m
毎度ながら書いているのですが、おもしろいもので、日和佐のちょうさ(布団太鼓)は“大阪型”と“堺型”が混じったような形態をしております。
明確に「型」を断定することはできないのですが、その特徴から限りなく大阪型であるとか、限りなく堺型というふうに勝手に呼んでおります。なので、あまり真に受けないようお願い申し上げつつ、堺型の特徴である“通し柱”の補足を少し。
堺型の大きな特徴としましては、四柱が下(地面)まで通っているということです。
(掲載:祭道楽のだんじり見聞録!)
しかし、ここでミスリードしてしまいそうなのは、日和佐のちょうさが海に入ることが前提で組まれているということであります。
海に入る。すなわち、海水に浸かるために、海に入らない他の地域の屋台よりも痛みが激しく、勾欄(こうらん)から下の部分を頻繁に改修、新調してきたため、堺型特有の通し柱であるかどうかの判断がしにくくなっていると思います。
図にもあるように、堺型の柱は、縁束(えんずか)と一体化してしまって、交換することが想定されていない感じの作りであります。

一方、日和佐のそれは、海水の流れをよくするためか、下図・土呂幕(どろまく)もないほどのシンプルさなのですが、その土呂幕部分の縁葛(えんかずら)辺りにまで支柱が通っているか?いないか?という判断において、
「堺型っぽい!大阪型っぽい!!」
と呼んでいるわけです。
これに関しての解釈も、人それぞれでして、ある人は“大阪型”だといい、またある人は“堺型”だといいます。これらの解釈のズレはおそらく、だんじりの通し柱の発想(縁葛で止まっている)が布団太鼓にも持ち込まれ、わかっているのに見誤る、といった状態になっているのではないでしょうか。

(掲載:泉州泉佐野・春日町布団太鼓)
また本来は、勾欄(こうらん)や縁板(えんいた)にも細々とした彫刻が入るらしいのですが、海対策として、あえて日和佐のちょうさは彫刻を施していないというのが、真相であると思います。
ゆえにか、学術的には、日和佐のちょうさは何物でもないのかもしれませんし、大阪で一番古い布団太鼓が1855年頃のものであることを考えても、発祥の上方に原型を求めるのではなく、それよりもさらに古い日和佐の布団太鼓にこそ、原型を見ることができるのではないか?と偉そうなことを思ったり……。
ともあれ、その特有の構造によって、確認の土台と認識がズレてしまっている感じにΣ(・∀・;)
日和佐・各町の方に、通し柱のことを尋ねると、どの部分を起点にするかによって、返ってくる回答が違って、おかしいな〜?と思っていた次第であります。
ちなみに、サンプルの写真は、本町のものでありまして、まじまじ見ると、堺型っぽいちょうさであることが判明しました!
おわり。
お祭り擬人化をノリではじめて、はや三ヶ月余りが過ぎました。
当初は、ちょうさを萌えキャラにしたら怒られるのではないか?とか思ってやっておりましたが、おおむね好意的に見ていただいており感謝感激雨あられ(古)であります。
中には、ガチ祭りに萌えか!?という意見もあるかと思いますが――、
突然ながら、みなさま、ちょうさ(布団太鼓)にも雌雄があるのをご存知でしょうか?
大きく分けて、雄太(おんた)と雌太(めんた)といいまして、見分け方としましては、雄はトンボが上を向いているのに対して、雌は下や横を向いております。

(掲載:河内の銘太鼓台)
やはり、雄の方がトンボにも勢いがあるのですね\(^o^)/チ◯コみたいだー!!

(日和佐のちょうさは、すべて雌太)
一方、雌の布団太鼓は、装飾が多めに施される傾向があります。
つまり、この分類的にいいますと、日和佐のちょうさは女の子なわけでして、この辺は、確信をもって萌えキャラで差し支えないと思います。

ところがどっこい、日和佐のソレは、雌太なのに雄太のようにシンプルな形状をしており、水引幕(みずひきまく)や高欄(こうらん)、土呂幕(どろまく)がそのようなのも特徴的だと思います。
おそらく、日和佐の娘たちは海水浴(禊)をしますから、しぜん、そういう加減になっていったのではないでしょうか?
そう考えると、大阪型と堺型が混じり合い、そこへ堺系と京都系の彫刻が施される。雌雄も判然とせず、実に独自に進化したちょうさだなと思う次第でありますヽ(´エ`)ノ
日和佐の屋台は、実にガラパゴス化していて面白いですぅ。
先日、T様にいただいた『中村町太鼓年表』の昭和25年の欄に興味深いことがありました。
そこには、「調双」と書いて“ちょうさ?”と呼んだ記載があった、という記載なのですが、これはもしや「ちょうさ語源説」の新たな手がかりでしょうか?!
世間一般でいう“ちょうさ”の語源は、香川は豊浜町の『張子公(儒学者)の功績をたたえて「張さん」と呼ぶようになったのがはじまり』であるとか、七重車(しちじょうしゃ)の「七」がとれた呼び名であるとかさまざま。
ネットでたまたま見つけた南新桜というブログにも、張子公は正式には張載(ちょうさい)と呼ばれており、広島のそれもチョーサイ(長歳・長生きという意味も)と呼ぶらしいので、そうではないかと書かれております。
また、儒学の影響を受けた大塩平八郎が乱を起こすさいの記号として張子を用いたであるとか、門弟や残党が大塩平八郎を偲んで掛け声として使ったなど、収集がつかないありさま。
結局のところ、どれもこじつけの域をでなくて、スルーしてしまいそうな心境であります(ヽ´ω`)
一番しっくりくるのは、ただの掛け声という考え方で、徳大総合学科・文化人類研究室の資料にもそういうことが書いてあります。
少し引用すると、
文政4年(1821)の『浪速方言』に「てうさゃようさやてうさゃようさや、大坂にて、山車(だんじり)を挽き歩く時囃子の言葉なり」とあります。
延享2年(1745)作の歌舞伎『夏祭浪速鑑』長町裏殺しの脚本には「御輿を担ぎ出て来り、ちゃうサやちゃうサや、ようサようサようサと云ひながら舞台を廻り」とあります。
また、嘉永3年(1850)の西沢一鳳『皇都午睡』初編上の巻には「上方にて物を運ぶ掛声にゑいさやちょふさと云ふ」とあります。
つまり、この論文は、ただの掛け声と方言だ!ということで深く考えるなということでしょう。
確かに、「ちょうさじゃ」という掛け声があっても、布団太鼓を指しているわけではなくて、神輿だったり鉾だったりするのは不自然な感じもするでしょう。
お隣の淡路島では、どう見ても布団を重ねたちょうさっぽい屋台のことを“だんじり”と呼んでいるところもあるわけでして、一概に屋台のことではないようなのです。
1847年、弘化4年からの「太鼓割」には「ちょうさ」という文言がなく、すべてが「太鼓」になっております。
つまり、この時代にも存在していたであろう日和佐のソレは、“ちょうさ”という呼び名ではなかったのではないでしょうか?
堺からダイレクトに伝わり、年代的にも歴史のいわれにしても“布団太鼓”と呼んだ方がたぶん自然であろうと思うわけです。
ところがそこへ、同じ四国。讃岐型の歴史が降りてきて、しかも、大阪に出向くと「ちょうさちょうさ」と言っている。
大阪に憧れる徳島人からすれば、これは真似しないとアカン!となるのは当然の心理状態だったのかもしれません。
筆者にもおぼえがあるのですが、「よいやっさ」とか「ちょいやっさ」という掛け声と、差し上げを意味する「さっせー」が連続すると、方言独特の着崩しか、「ちょ〜いやさ〜せ〜」という音になり、しだい「ちょうさ」と聞こえるようになりました。
本来、日和佐の「ちょうさですよ〜、勇んで行きますよ〜」という「ちょうさじゃ〜、いっさんじゃい」は、そういうふうには聞こえにくいですし、差し上げ間際の掛け声など、「日和佐」という言葉をはぐらかしたような発音で自信なさげに聞こえる。「さーせーさーせー」は「やーれーさーせー」と変形して何だかよくわからない言葉に。
たぶん、こういう曖昧さの積み重ねと、ゆるやかな口伝での継承が言葉を取りこぼしているような感じです。
前置きはさておき、冒頭の「調双」とかいて“ちょうさ?”の謎なのですが――、
もしかしてだけど〜♪もしかしてだけど〜♪
「双調」と「調双」の読み間違いなんじゃないの〜?
というのが結論です。
双調(そうじょう)とは、雅楽の六調子のうちの表現方法なのだそうで、洋楽の「ハ長調」や「イ短調」といった感じでしょうか。
中村町は、太鼓の音にこだわる町なので、この頃も、どういうふうに演奏するか?ということを試行錯誤した結果、雰囲気だけでも!というノリが右書きを間違えて読ませたか、あえて右書きとして読んだ、もしくは、記録の清書で間違ったか、そういうミスへの誠実さが謎を深めている感じもしております。
豊原統秋著『体源抄』には、調子のイメージをこんな風に例えております。
○平調 春風に柳の倒れかかるごとくこれを吹くべし。
○盤渉調 何に例えつべくもなし。ただ静かに延べて吹くべし。いずれよりも、この調子を延べて吹くべし。
○黄鐘調 銚子に澄みたる酒を入れたるを見るがごとし。
○太食調 板敷きの下にてコトヒノ牛の角突きをするがごとし。
○壱越調 明障子に砂をうつがごとし。
○双調 秋草の花咲乱れたる中に幽玄なる男、大口ばかりにて優し気ながら刀を差し、柄を握りて立つごとく吹くべし。
なるほど、いわれてみれば、中村町はそういうイメージで叩いているのでしょうか?いないでしょうか?
また、これらの調子は「陰陽五行(いんようごぎょう)」にも関わりがあるそうで、それぞれに対応する季節、音、色、方角などが事細かく決まっているそうです。
ちなみに、双調は春・東方・木音・青色。ということらしく、中村町のはちまきが青っぽいのは考えすぎでしょうか(+o+)
ともあれ、おそらく、張さんとは明らかに関係のない地域でも「ちょうさ」という感じの掛け声や屋台があることを勘案すると、ただの掛け声のような気がしてなりません(=_=)
この辺は、「百一匹目のサル」ということで収まりませんかね?
先日ブログで、日和佐八幡神社のちょうさをみて、伝統が失われつつあるという旨の指摘をされている方がいた。
興味深いのでふむふむと読んでみると……、おそらく八幡神社のHPで入母屋付きの西新町のちょうさを見た後、戎濱のちょうさに名残を見出し、残っているのはここだけだ!といった感じの〆でした。
入母屋(いりもや)とは、屋根のこと言い、↓の写真のような感じです。こんなものを昔の西新町はかぶって運行していて、さぞ重たかったことでしょう。

(日和佐八幡神社:歴史写真館より)
結論からいうと、この解釈は誤りであると思います。
なぜなら、戎濱のそれは祭り前日の搬入による甘露対策の名残と、現代においては、火事へのトラウマから雨の他、日差しにも過保護になり、しかも、他所の太鼓よりも小柄なため、少しでも大きく見せようと傘をかぶっているのが真相であろうと思います。
これは、戎濱の方から聞きました。
だから、雨傘は伝統かどうかは怪しいし、なにより、西新町と桜町しかかぶっていなかったという事実が気まぐれ性を証明していると思います。新しいものが大好きで、良いものは取り入れて少しずつ変えていくという、この二町の、時代の一場面と考えた方がしっくりくるのですが――、本当のことは知りませんm(__)m

(戎濱の傘)
で、ここからが本題なのですが、そもそも、ちょうさに入母屋は必要か?ということ。
もう見慣れてしまっているので、いまさら布団の上に屋根とは妙な感じがするのですが、ちょうさの形は、実に合理的だなと思うわけです。
諸説では、なぜに布団か?と問われれば、カミ様が休むためとか、豊作を願う「田」であるともいわれております。
カミ様と交信するためには、昔から歌や煙、太鼓の音と相場が決まっており、ちょうさの場合、太鼓の音を大変貴重だった布団を五枚も重ね、その中心から天に向かって響かせているという構造なので、やはり、布団太鼓は、神輿の後をちょろちょろとついて行くだけではなくて、カミの依代だなぁと思うわけです。

少し脱線しますと、八幡神というのは他のカミ様とは少し違って、よくしゃべり、祭りが好きで、子供が好きで、腕っぷしのいい、国家鎮護のソレというイメージがあります。
だから、御旅所に連れだされても、その場でじっと座っているとは到底考えにくく、音霊を響かせながら練っているちょうさの上で祭りの見物でもしていそうな感じです。
昔々の日和佐の祭りでは、御旅所を現在の大浜海岸ではなく、軍人墓地だったり鳥居横に置いていたそうです。
境内に御旅所が置かれると、ちょうさもそこから離れるわけには行かないので、海で禊いで観客を喜ばせ、お浜入りすることができなかったようです。
しかし、先にも書いた八幡神の性格上、たぶん、御旅所などどこにあってもちょうさに寄ってくる感じがして、福田恒存ふうに言うと『物理的の必要』など適当でええやん!とか言いそうなのが、懐の深い日本のカミ様なのではないでしょうか?

そんなこんな、日和佐のちょうさは、その布団の上に天幕(てんまく)と呼ばれる目隠しみたいなものがついていて、ますます、カミ様と何やら話し込んでいるような気がするわけです。

(構造的には、たぶん要らない天幕)
なので、雨天はしかたがないとして、ちょうさの上に屋根などついていようものならば、カミとの交信が遮られ、うまくお蔭が受けられない感じもするわけでして――、私は入母屋いらないに一票!
戎濱は、もうトレードマークだから、あれはあれで( ・∀・)イイんじゃない!?
それにしても、ちょうさの形がなぜあういう風になっているのかは、かなり根深い謎のようです。
ただ、合理のまともな前提は合理以外の歴史的常識からくるものなので、日本人が日本的に生き、その構造を感じられるように時間的持続を大切にしていかなければならないのかなぁ(^O^)/と、都会の田舎かぶれをからかったりからかわなかったり……。
本日は、中村町のT様から貴重な資料を送っていただきました!
その中の写真に、ぜひとも見てみたかった初代・戎濱とかの有名な新調まもないカラフルな布団の写真まで!!
掲載許可をとってないので写真は載せず。ご了承くださいm(__)m
いや〜、実に衝撃的な姿であります。
古い写真なので、細かなところまでは確認できなかったのですが、初代は“大阪型”のように見えました。形は奥河町っぽくて旗が左右逆だったようです。
そのためか、“違い鷹の羽”の紋が“丸に右重ね違い鷹の羽”になっているのですが、やはり新調などのさいに左右が入れ替わり、そういうことは適当でよかったのかもしれません。
よく見えないのですが、シルエットの彫刻は、かなりスゴイっぽくて、戎町や西新町もビックリの出来栄えだったのではないでしょうか?
カラフルな時代は、上から布団が緑→黄色→赤→白→青。それを赤の布団締めとトンボで締めているわけで……、反対されたのもわかります(ToT)
写真では、旗が日章旗だったので、やはりいろんな意味で改革とはっちゃけと黒歴史(汗)が重なった時代だったようです。
まあ、新調後しばらくは、業者がカスタマイズに規制をかけるそうなので、ある意味、しかたがなかったのかもしれません。
他にも、中村町の年表もいただいて、いろいろと試行錯誤して現在の形になっているのだと時代の変遷を垣間見ることができました。
年表を見ていて気になったのですが、戎濱はいつ火災したのか?ということ。
日和佐八幡神社のホームページには、昭和41年と書かれているのですが、年表には43年とあります。
「どうせ書き間違いだろう……( 一一)」
とか思っていたのですが、41年も戎濱は不参加とある。理由は不明。
一応、年表を疑ってみたのですが、戎濱の方と保存会会長も43年だとおっしゃっていたので、たぶん43年火災だったのでしょう。
とすると、この2年のブランクは一体なんぞや??
謎が謎を呼ぶ、ちょうさの歴史なのでありました。
ご存知の方、いらっしゃいましたら情報よろしくお願いしますm(__)m
先日、奥河町のW氏と話し込んでいたら、なぜに中村町の「紋」が“二つ巴”なのか?という話になりました。
普通たいてい、八幡神社の祭りだから“左三つ巴”の紋が入っているはずなのに、二つとはどういうことだ!?

紋の由来は比較的簡単に検索できますが、なぜそれを使っているのかまでは、その町に聞いてみないとどうにもこうにも……。という感じの結論に (´・ω・`)
小難しい『江談抄』という物の本には、巴の数が左が三つで右が二つというふうに、太鼓の位置関係を示す決まり事だったそうです。それがいつしか、卍の向きの影響を受けて臨機応変に右回りだったり、左回りだったりして拡散したとのこと。
つまり憶測では、中村町は、八幡神社が「左」ならば、うちは「右」だ!と位置づけをするために自ら進んで基準となったのではないか?太鼓にポリシーのある町ゆえのトレースと決意表明も兼ねているのか?!と、勝手な想像で遊んでおります。
もしくは、中村町の巴の向きも独特ですが、旭日の中に「中」と書いたり、 台座のカスタマイズをしたりと、デフォルトをよしとせず、いじることが大好きなこの町特有のささいなアレンジ?だったのではないかと。
かくいう奥河町のそれも、天幕には“三つ巴”が付いているわけですが、打子の衣装にはなぜか “二つ巴”っぽいものが付いております。
W氏提供の奥河町の写真(30年前)には、今とは逆回りの巴になっていて、文献をあれこれ調べましても、 結局は気分や区別、業者の都合というふうに、けっこう適当に使っていたのではないでしょうか? 特に奥河町は、そういうところにアバウトさがあるため、なおさらどちらでもよかったのかもしれません。
ついでに書いておくと、この巴紋をつけていない町も!
例えば戎町。
戎町は日章旗と“三つ蔓柏”で打子にも同じ模様が。この三つ蔓柏は、戎濱にも付いております。 お互い漁師町だから漁業のカミ様のえべっさんにあやかっているのか、神社に関わりが深い町だったからなのか、おそらくそういう理解が有力だと思います。
ついでに言うと、戎町の額に「蛭子町」と書いているので、拝んでいるえべっさんは、大黒さんの子供の事代主神(ことしろぬしかみ)ではなく、 イザナギ・イザナミの子供である蛭子命(ひるこのみこと)だと思います。
わからないのは、戎濱のもう片方の旗にある“丸に違い鷹の羽”の紋。
どこかで見たことがあるなと思っていたのですが、 これは忠臣蔵の浅野家の紋ですよね?!元は阿蘇神社の神紋だったみたいですが、カッコイイからと旗本などに広まっていった経緯をみると、戎濱にそういう家があったのか、漁師町だから武士の勇ましさに憧れて掲げていたのか?
それとも、 “丸に違い鷹の羽”を掲げる八幡神社の方向を向いているのか?!
ぜんぜんわからん(=o=;)!
そういえば、先日の記事で、初代の戎濱のちょうさの彫刻に、金太郎だったか桃太郎が刻まれていたと書きましたが、定かではなくて、実物を見たことはありません。
当時のことを知っている地元の人も細かなところまでは覚えてない。もしかすると、忠臣蔵っぽい武芸者でも彫っていたのか?とか思ってみたりみなかったり。
桜町と本町は桜の紋が入っていますが、桜町は新興住宅地ということもあり、単なるマークとして深い意味はないとのこと。
本町に関しては、“山桜”の紋が入っているわけですが、詳細は不明。案外、当時の名家とか作者の苗字に「さ」という字が入っていただけかもしれません。
東町は、わかりやすくて“(旧)日和佐町章”に「東」を入れただけとのこと。
これは、うすうす感づいておりました^^;
1935年7月23日に日和佐町ができたみたいなので、それ以前はどんな旗だったのでしょうかね〜?
と、だらだらと語ってしまったわけですが、以上のことで何かご存知の方いらっしゃいましたら、ぜひお話をお聞かせ下さい〜m(__)m
忙しい 気がするだけの 師走かな
周りはせわしなく振舞っているのに、そうでもないかなぁ?と密かに疑問に思って、忙しいフリをしている皆さま、こんにちわ。
本日は、情報提供者を探しての投稿になります。
何を知りたいのかといいますと、日和佐・戎濱(恵比須浜)のちょうさが新調のさい、マイナーチェンジしたのか?はたまたフルモデルチェンジしたのか?ということ。
独自の聞き取りでは、旧型を引き継いでほぼ同じであることは間違いないようなのですが、ふとん下の雲板部分の彫刻の整合性がとれなくてう〜む?といった感じです。
モデルというのは、ちょうさの“型”のことでして、日和佐のそれは、堺型と大阪型が混ざり合ったような雌太鼓(仕上がり)になっているのは、みなさま周知のことと思います。
見分け方としましては、装飾が中心か彫刻が中心か?ということと、ふとんの角度やふとん下の雲板、彫刻の題材、四柱の長さなどがあって、各町、大阪型に近いように思います。

戎町と西新町に関しては、雲板の部分が屋根っぽく、堺型の大阪仕様な雰囲気ですが、下にもぐってみたら四柱が地面まで通っていたので堺型といえるでしょう。
(掲載:祭道楽のだんじり見聞録!)
皆さまの住む町のちょうさは、何型でしょうか?
余談はさておき、戎濱なのですが、この町のちょうさは堺型でも大阪型でもなく“淡路型”でして、淡路型の特徴としましては、ふとんの下に薄い板を数枚重ねたようなタガヤがあります。

初代の戎濱は、もも太郎だったか金太郎が見事に掘られたちょうさだったらしく、戎町や東町と同じく漁師町としての対抗意識が強かったのではないでしょうか?
とすると、自ずとそのようなふとん台(堺型)になっていたはずで、聞き取りのように単なるリメイクでは済んでいないと思うわけです。
つまり、本題として、戎濱が新調のさい型をいじったのかどうかが私――、
「気になります!」←千反田えるっぽく
ということで情報をお待ち申し上げます。