新着情報

広義のちょうさで説明可能か?

 いつも思っていることなのですが、日和佐のちょうさ(布団太鼓)は、あまりにも全国の布団太鼓とことごとく違う感じがしております。

 かき棒の組み方にはじまり、拍子の取り方、台座の低さ、全町違うカラフルな布団などなど、大阪とも堺とも違うその構造的な特異性が、正体にモザイクをかけている感じに。

 おかげさまで、調べれば調べるほど解から遠ざかっていくという八方ふさがりな状態であります(~o~)

 それは、もちろん日和佐が漁師町で、海に入ることを前提に組まれているからに他ならないのでしょうが、そもそも、なぜに農村系の祭りを漁師町が採用しのでしょう?

 憶測で言えば、日和佐にちょうさを持ってきた谷屋甚助の感性によるものが大部分を占めると思います。
 なぜなら、昔の人はあれこれ論理的には考えたりせずに、歴史によって培われた常識によって物事を判断していたからであります。
 だから、案外、大阪で奇妙な形の屋台を見て、
「布団太鼓、超Σd(゚∀゚d)イカス!」
 といった物珍しさだったかもしれません。

 さておき、

 そのちょうさ(布団太鼓)は、本当に合理的な形をしているなぁ〜と思います。
 トンボは雨雲房は雨を表し、おまけに水のカミ様の使いである竜の布団締めや彫刻までもあしらう。
 大阪の方へ行くと「べーら べーら べらしょっしょい!」という掛け声もあったりして、これが農村系の祭りであることを証明していると思います。

 「べら」とは「米良」つまり、良い米=豊作を表し、良い米ができたぞ!ワッショイワッショイ♪というニュアンスが鈍って「べーらべーら」となっているのだと思います。

 東大阪のとある中学校の学校通信(プリント)に、昔は米を奉納するのに赤の幕と白の水引をつけていたことから、太鼓台の布団には「赤」布団締めは「白」が採用されていったと書かれていました。
 真実かどうかは知りませんが、現地の年寄りの話が盛り込まれているので、とても本当くさく理解しました。

 だから、全国の布団太鼓(ちょうさ)はが多い!!ということでしょうか。

 また、以上のことから、豊作を祝うことの他にも、布団太鼓(ちょうさ)は、雨乞いのための道具であったのかもしれません。
 そう考えると、水不足でお悩みの讃岐のちょうさなどは、これでもか!というほど大きな竜の刺繍を太鼓にあしらい、布団を締めているのか覆っているのかわからなくなるほど、切迫した危機感が見て取れる感じの仕上がりに(ToT)

 讃岐系ちょうさの解説文を見るに、原型は京都の祇園祭で、瀬戸内経由で伝わったとされております。ですが、なぜにそういうことをやっているか?という思想や信ぴょう性が薄くて、単に綺羅びやかさを求め、東に行くほど小物という扱いが多いように思います。

 ここでもう少し深堀りしますと、これも仮説ではありますが――、
 布団太鼓の起源は、宮崎県や愛媛県に見られる「四ツ太鼓」かもしれないとのこと。

 四つ太鼓とは、簡単に言うと、布団のない太鼓屋台みたいなものでしょうか。

 分かる気はします。
「稲作の方法を教え、国を治めよ!」と命を受け、ニニギノミコト天孫降臨の地である宮崎県から豊作を祝う祭りが始まったのは理にかなっているし、廻船の発達とともに四国(愛媛)にもソレが入ってきたとも想像できます。

 なにせ、四つ太鼓をかき上げるさい「ヨーンヤッサイ!」というのは、愛媛や香川の「ヤッサイヤッサイ!」という掛け声と似ているからです。
 香川の方は気を悪くするかもしれないので、小さい声でいいますと、四つ太鼓の担ぎ棒を長サイ棒(ちょうさいぼう)と呼ぶそうで、“ちょうさ”という呼び名は、張さんを讃えるというより、ここからきているのではないかと思います。

 広島の布団太鼓のチョーサイもおそらく、この流れの理屈ではないでしょうか。

 一方、日和佐はどうか?と言いますと、まぎれもなく堺からダイレクトに伝わっているので、讃岐系のちょうさとは別物であると思います。

 讃岐系のちょうさが、九州南部のソレが愛媛とか瀬戸内経由で入ってきたとすると、その根拠は、【カモ氏(鴨・賀茂・加茂)】の祭祀にかかる、大三島の大山祗神社の支配下に置かれた祭りの遺構と考えられるとのこと。

 確かに、大阪のものとは大きさや雰囲気があきらかに違うし、災いを払うために始めた祇園祭とは、まったく背景が違っていて、いずれにせよ、日和佐のちょうさは、瀬戸内・四国のソレとは別物であると思えます。
 そして、これらの祭りは、1800年頃に広まったということ。

 大阪・堺では、江戸中期(1651〜1745)から布団太鼓があったという資料もあり、やっていることは同じでも発祥は、また別物だったのではないでしょうか?

 なにせ、四つ太鼓説を採用してしまうと、日和佐・戎町のちょうさは、それよりもはやく存在しているわけでして、年代的にどうもおかしい。なので、やっぱり大阪発祥のものを取り入れたと考えた方が自然で、歴史においても、まったく関係のないところで同じようなことが起きるという「百一匹目のサル」現象にて理解した方がスッキリしそうな感じです。
 つまり、都会の子も田舎の子も、誰に教わったわけでもないのに、同じようなことをして遊んだり感じたりして成長するように、文化とは、何の接点がなくとも繋がるときは繋がってしまうものではないでしょうか。

 以上のことを勘案し、冒頭に戻りますと、日和佐は漁師町なのに農村系の祭りを取り入れて、独自の進化を遂げ、「ちょうさ」という型をいじり倒している稀な町であると思います。

 あれだけ大阪に憧れているのに、ちょうさの大きさは中型で、当時は裕福だったにも拘らず彫刻は控えめ、房も小さく、雌の太鼓なのに雄のようなシンプルさは、あきらかに機動性重視の日和佐特有の事情といえるでしょう。
 しかも、漁師町のせっかちさからか、ほとんどの布団太鼓が四拍子で足並みを揃えて担ぐのに対して、日和佐は二拍子で好き勝手……。

 と、あれこれと書いてしまいましたが、つまり、日和佐のちょうさは狭義のソレには当てはまりませんが、広義という制約のなさから、目的外使用の連発にて、ちょうさ(布団太鼓)界でも稀な姿形になっていったような気がします。


 まとめ(真に受けないでね☆彡)

 日和佐の布団太鼓は、目的外使用による水陸両用ホバークラフト的な屋台で、大阪発祥、独自カスタム。
 呼び名も、大阪方言の掛け声から。

 結論すると、他所と比べても何も得られないので、もう「日和佐型」と呼ばせてくださいm(__)m