
てなわけで、今回は、桜町・西新町・寺込のお話し。
元ネタ、わかるかな(;・∀・)?
桜町と西新町が姉妹関係にあるのは、日和佐の方なら周知のことだと思います。しかし、それ以前のことは、あまり知られていないようなので、今回は、そんな三町を取り上げてみたいと思います。
昭和二十一年、西新町は、旧のちょうさの扱いに困っていました。スペアとしてとっておくべきか、いっそ処分するべきか・・・。
そんなとき、なーんにもない新興地でちょうさも保有していなかった寺前地区が浮かびます。当時の寺前は、寺前込方。ご存知、あの大きなだんじりを、現・桜町と寺込が共同で運行していました。いや、もともと一つの町であったともいえるでしょう。
そこへ、西新町から「ちょうさはいらんかね?」と言われ、「ほしい!やります!」ということで“だんじり派”と“ちょうさ派”に分断、おのず町も別れて現在にいたるというわけです。
翌年、「桜町太鼓規約」が制定されるとともに、西新町との繋がりを強くするため縁組なども盛んに行われたのだそう。桜町に住んでいるけれども、実家は西新町だという方もけっこういるのではないでしょうか?
加えて、ちょうさを運行するために、習えや稼げと商売を始めだしたのも、一面の田んぼから商店街へと繋がるベースになっているようで、ちょうさ一台が日和佐の歴史に大きく関係していて興味深いことだと思います。
余談ではありますが、西新町と同じ白い布団の桜町ですが、これは姉妹関係にあるからというわけではなく、参入時、布団を買うお金がなくて、木枠に白いペンキを塗っていたからだという説もあるようです。
一方で、寺込のだんじりについて。
このだんじりは、江戸末期〜明治初期に大阪堺の二代目・西岡又兵衛(堺彫又)によって作られたもので、現・阿南市(那賀郡)の福井町(村)が大正初期に購入しました。
堺の港を発ち、橘港で受け取ったという記録も残っております。
しかし、堺型だんじりとしても大型だったため、福井村の人たちも曳くに曳けず、大正六年、日和佐の寺前にやってきたというわけであります。
唐獅子牡丹のみごとな彫刻、伊勢音頭を歌いながらゆったりと練りゆくその姿は、カミの依代としての格の高さを、さぞ醸していたでありましょう。
正確な作事は不明ですが、日和佐にやってきて、今年で99歳。
来年は100歳を迎えます!なんと現在の戎町(大正十年)のちょうさよりも年上ではないか(゚∀゚)!!
全国のだんじりのたいはんは、空襲で焼かれておりますので、100年ものは、とーってもすごい奇跡であると思います。願わくば、来年のカレンダーには、しょーもないギャル神輿とか氏子ですらない子供(7歳以下)の写真などつかわずに、寺込のだんじりを入れていただきたいものであります(`・ω・´)ゞ
カメコの皆さん、たのんだよ!!
ちなみに、初代・戎町のちょうさは、志和岐の吉野神社で、だらーんと色キチ太鼓として頑張っておるそうで、この辺のお話しは、また今度。
ひとまず、おわり。
