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マンガ公開しました〜。
今回は、奥河町と戎濱のお話しです。
赤がデファクトスタンダードだと言い切る奥河町。
それもそうです。
布団太鼓は本来、農村系のお祭りで、米の奉納に赤の幕と白の水引をつけていたそうですから、赤が元祖なんです。
そんな確固たる自信に満ちたジュンちゃんと、第二、第三形態へと進化したゆき(戎濱)との対比に注目です。
ついでに、キャラクター設定も追加しました。
関係者の方々、すみません。
作者の中では、こんなイメージなんですm(__)m

日和佐八幡神社・秋祭り(奥河町)
日和佐八幡神社・秋祭り(戎濱)
昨日は、建国記念日(皇紀2674年)でしたね!
いや〜、めでたいめでたいヽ(^o^)丿
え?何の日か知らない!?
神武天皇が即位した日ですよ奥さん。日和佐八幡神社にも祀られている玉依姫命(たまよりひめのみこと)の末っ子ですがな。わかりましたか。
この神武天皇から今上天皇(現在)までずーっと神話の世界から続いている日本は、本当にクールですよね。三種の神器なんか、本当にありますし……。
ともあれ、めでたい!!
なかには、ありもしない軍国主義と日本を重ねて、建国すらも否定してしまう残念な方々もいらっしゃるようですが、このページをご覧になっているお祭り好きなみなさまは、もちろん日本大好きですよね( ´∀`)
さておき、日和佐八幡神社のブログでも建国記念日の式典の模様が掲載されておりますのでご紹介。
ちょうさとは関係ないですが、ちょうさはカミ様あってこそですし、そのカミ様だって皇室あってこそであるという認識はとっても大事だと思います。
だから、何が何でも取り上げるぞい!必要があらば、ちょうさを飛び越して神話のマンガにもしてやる所存であります。
式典では、君が代や歌曲「紀元節」の斉唱のほか、浦安の舞の奉納がなされたそうです。
君が代はご存知かと思われますが、「紀元節」はこんな感じ↓です。
浦安の舞は、ネズミーランドのカーニバル的なものではなく、比較的新しい雅楽?といった感じで昭和天皇の詠んだ詩となっております。
“浦”とは日本の古語で「こころ」、“安”は「やすらぎ」、つまり、こころの安息という意味らしいです。やっぱり平和が一番であります。
そのための平和を守るために日本人としてしっかりと暮らし、外の世界と向き合い、ちゃんとコミュニティーを死守していかないといけませんね。
宇佐神宮の宮司も言っていましたが、社会とは“神社に行く”ことを指すそうで、神社に地域の人たちが集まって、中間共同体のことを話し合う。
これが、本来の利用方法であり、きっかけなどなくてもふらっと出かけてもOK牧場なのだそうです。
参拝に熱心でなくても、神社への求心力になっているのがまぎれもなくお祭であり、日和佐の場合は、ちょうさであると思います。お祭りバカ、バンザイ!
こんなことを書くと関係者に怒られそうなので小さい声でいいますと、日和佐の秋祭りのフォトコンテストは、写真がキレイなだけだったり、わざとらしく狙ったちょうさのソレばかりで総じてつまらないのですが――、
今年の入賞作品の中の(桜町)は、神社と中間共同体をうまく切り取っていてとてもよかった!
水平はとれていないしピント精度も甘い。一見、狙ったような写真ですけど、神社という社会の中の中間共同体(町内)をちょうさが見守っている構図が花まるを差し上げたいほど素晴らしい(-ω☆)キラリ
( ・`ω・´)「思想が見える……、物語が見える……。
躍動感や外国人にしか視線のいかないカメラマンよりずっとイイ!」
ともあれ、コミュニティーの死守は、お祭りの死守でもあるため、これからも日和佐は変わらず、平凡であってほしいと思います。
そして、人のことは言えないのですが――、上の世代は、下の世代に、平凡の素晴らしさを教えられるオトナになりたいな☆彡
2014/02/12
お久しぶりです。こんにちは。
この文はメモ書き程度のものなので、あまり真に受けないでお読み下さい。
いま、中村町の紋「二つ巴」の意味を調べていて、太鼓の位置関係ではなかろうかとか、いろいろと勝手な想像を巡らして遊んでいるわけでありますが――、

やっぱり真相はわかりません(´・ω・`)ガッカリ…
深く考えると、大変そうなので、戎濱(丸に違い鷹の羽)のように忠臣蔵にあやかって“二つ巴”にしたのではないか?と赤穂大石神社の紋を眺めてみたりみなかったり。
山鹿流の太鼓が日和佐太鼓にところどころ似ているように聴こえたりするのは、(フィクションらしいですが)陣太鼓をイメージしているのではないかとか思ったわけです。
三つ巴が戦いの紋だとするならば、陣太鼓は二つ巴という関係は意外としぜんなわけでして、奥河町のちょうさに「三つ巴」が付いているのに打子には「二つ巴」であるというのが、そういうルーツを垣間見ているよう。
もう一つ、難しく考えてみると、中村町は額に町名ではなく「八幡宮」と掲げてしまうほど、たぶん八幡神が大好きな町であると思うので、その延長線上をカーブしただけかもしれません。
八幡神というのは、神仏習合のいろんなカミ様の集合体でして、日和佐八幡神社も、
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主神…誉田別命(応神天皇)
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母神…息長足姫命(神功皇后)
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妻神…玉依姫命(神武天皇の御母后)
という感じに祀られております。
神話をつつき出すときりがないのですが、妊娠中でも戦う神功皇后とその息子の応神天皇。
諸説はいろいろありますが、ワンピースの登場人物であるルフィの兄・エースみたいな生まれ方をしていて、そのさい、腕の肉が弓具の鞆のように盛り上がっていたそうです。
巴の模様は、鞆からもきているそうなので、武神として八幡神であるわけがわかります。
他、妻神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)(神武天皇の御母后)も祀られておりますが、玉依姫命は海の神の娘でして、神武東征の際に先導役となった海の神=塩椎神(しおつちのかみ)だとされております。
この塩椎神(しおつちのかみ)が武角身(たけつのみ)とたぶん同一人物でありまして、鴨族の祖を指していると思います。そんでもって、鴨族=葛城氏のことでありまして、その家紋が「二つ巴」なのでありました。
だから、中村町の紋のルーツは、玉依姫から鴨族までさかのぼり「二つ巴」を掲げているのではないか?!
という勝手な説の出来上がりであります。
過去のブログ記事に、
讃岐系のちょうさが、九州南部のソレが愛媛とか瀬戸内経由で入ってきたとすると、その根拠は、【カモ氏(鴨・賀茂・加茂)】の祭祀にかかる、大三島の大山祗神社の支配下に置かれた祭りの遺構と考えられるとのこと。
と偉そうなことを書いております。
もうちょうさの話でもなんでもないのですが、この鴨族のルーツは百済からやってきて、愛媛の大三島に上陸、後に関西の方に分流していったとされております。
だから、四国の布団太鼓は、愛媛から香川にかけてなんとなく九州っぽい雰囲気。
対して、徳島の布団太鼓は完全に大阪のものであるにもかかわらず、中村町のちょうさのトンボだけが、讃岐系と同じ結びなのがおそろしく謎であります。


(讃岐系っぽい結び)
もしかすると、中村町のちょうさは、鴨っぽい影響が入った町、もしくは住人によって設計された屋台なのかもしれません。
いずれにせよ、トンボの形にルーツがありそうということで、今日はここまでm(__)m
みなさまからの情報を募集しています!
日和佐八幡神社秋祭りにかかせないちょうさ
。
全国的にも稀な目的外使用の水陸両用ホバークラフト的な日和佐のちょうさなのですが、その特異性からガラパゴス化してしまい、資料が不足しております。
昔の写真やエピソードなど、ちょうさに関する情報をお寄せ下さいm(__)m

NOTICE
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個人情報は公開しません。
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送っていただいた資料は、原則、公開を同意していただいたものとします。
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マンガに関する要望などはお受けできません。
特に調べていることがらは、こちら。
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寺込のだんじりの唄について
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初代・戎濱の彫刻が確認できる写真
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志和岐のちょうさの出自について

美波町観光協会の「かめたろうTV」を見ていたら、ふと目に止まった初代・戎濱のちょうさ。
初代の写真は何度か見たことがあったのですが、トンボの部分にご注目。

「トンボの先が上を向いとるー!?」
ということは、当時の戎濱は雄の“ちょうさ”だったのでしょうか\(◎o◎)/!
ちなみに、この写真は70年ほど前のものだそうで、それ以降、50年ほど前の戎濱は、トンボが下を向いていて雌になっております。
ということは、この間に性転換がはかられたのか?はたまた組み立てミスなのか??
ご存じの方いらっしゃいましたら、情報よろしくお願いしますm(__)m
(徳永かめたろう家?のタイムカプセル)
いつも思っていることなのですが、日和佐のちょうさ(布団太鼓)は、あまりにも全国の布団太鼓とことごとく違う感じがしております。
かき棒の組み方にはじまり、拍子の取り方、台座の低さ、全町違うカラフルな布団などなど、大阪とも堺とも違うその構造的な特異性が、正体にモザイクをかけている感じに。
おかげさまで、調べれば調べるほど解から遠ざかっていくという八方ふさがりな状態であります(~o~)
それは、もちろん日和佐が漁師町で、海に入ることを前提に組まれているからに他ならないのでしょうが、そもそも、なぜに農村系の祭りを漁師町が採用したのでしょう?
憶測で言えば、日和佐にちょうさを持ってきた谷屋甚助の感性によるものが大部分を占めると思います。
なぜなら、昔の人はあれこれ論理的には考えたりせずに、歴史によって培われた常識によって物事を判断していたからであります。
だから、案外、大阪で奇妙な形の屋台を見て、
「布団太鼓、超Σd(゚∀゚d)イカス!」
といった物珍しさだったかもしれません。
さておき、
そのちょうさ(布団太鼓)は、本当に合理的な形をしているなぁ〜と思います。
トンボは雨雲、房は雨を表し、おまけに水のカミ様の使いである竜の布団締めや彫刻までもあしらう。
大阪の方へ行くと「べーら べーら べらしょっしょい!」という掛け声もあったりして、これが農村系の祭りであることを証明していると思います。
「べら」とは「米良」つまり、良い米=豊作を表し、良い米ができたぞ!ワッショイワッショイ♪というニュアンスが鈍って「べーらべーら」となっているのだと思います。
東大阪のとある中学校の学校通信(プリント)に、昔は米を奉納するのに赤の幕と白の水引をつけていたことから、太鼓台の布団には「赤」、布団締めは「白」が採用されていったと書かれていました。
真実かどうかは知りませんが、現地の年寄りの話が盛り込まれているので、とても本当くさく理解しました。
だから、全国の布団太鼓(ちょうさ)は赤が多い!!ということでしょうか。
また、以上のことから、豊作を祝うことの他にも、布団太鼓(ちょうさ)は、雨乞いのための道具であったのかもしれません。
そう考えると、水不足でお悩みの讃岐のちょうさなどは、これでもか!というほど大きな竜の刺繍を太鼓にあしらい、布団を締めているのか覆っているのかわからなくなるほど、切迫した危機感が見て取れる感じの仕上がりに(ToT)
讃岐系ちょうさの解説文を見るに、原型は京都の祇園祭で、瀬戸内経由で伝わったとされております。ですが、なぜにそういうことをやっているか?という思想や信ぴょう性が薄くて、単に綺羅びやかさを求め、東に行くほど小物という扱いが多いように思います。
ここでもう少し深堀りしますと、これも仮説ではありますが――、
布団太鼓の起源は、宮崎県や愛媛県に見られる「四ツ太鼓」かもしれないとのこと。
四つ太鼓とは、簡単に言うと、布団のない太鼓屋台みたいなものでしょうか。
分かる気はします。
「稲作の方法を教え、国を治めよ!」と命を受け、ニニギノミコト天孫降臨の地である宮崎県から豊作を祝う祭りが始まったのは理にかなっているし、廻船の発達とともに四国(愛媛)にもソレが入ってきたとも想像できます。
なにせ、四つ太鼓をかき上げるさい「ヨーンヤッサイ!」というのは、愛媛や香川の「ヤッサイヤッサイ!」という掛け声と似ているからです。
香川の方は気を悪くするかもしれないので、小さい声でいいますと、四つ太鼓の担ぎ棒を長サイ棒(ちょうさいぼう)と呼ぶそうで、“ちょうさ”という呼び名は、張さんを讃えるというより、ここからきているのではないかと思います。
広島の布団太鼓のチョーサイもおそらく、この流れの理屈ではないでしょうか。
一方、日和佐はどうか?と言いますと、まぎれもなく堺からダイレクトに伝わっているので、讃岐系のちょうさとは別物であると思います。
讃岐系のちょうさが、九州南部のソレが愛媛とか瀬戸内経由で入ってきたとすると、その根拠は、【カモ氏(鴨・賀茂・加茂)】の祭祀にかかる、大三島の大山祗神社の支配下に置かれた祭りの遺構と考えられるとのこと。
確かに、大阪のものとは大きさや雰囲気があきらかに違うし、災いを払うために始めた祇園祭とは、まったく背景が違っていて、いずれにせよ、日和佐のちょうさは、瀬戸内・四国のソレとは別物であると思えます。
そして、これらの祭りは、1800年頃に広まったということ。
大阪・堺では、江戸中期(1651〜1745)から布団太鼓があったという資料もあり、やっていることは同じでも発祥は、また別物だったのではないでしょうか?
なにせ、四つ太鼓説を採用してしまうと、日和佐・戎町のちょうさは、それよりもはやく存在しているわけでして、年代的にどうもおかしい。なので、やっぱり大阪発祥のものを取り入れたと考えた方が自然で、歴史においても、まったく関係のないところで同じようなことが起きるという「百一匹目のサル」現象にて理解した方がスッキリしそうな感じです。
つまり、都会の子も田舎の子も、誰に教わったわけでもないのに、同じようなことをして遊んだり感じたりして成長するように、文化とは、何の接点がなくとも繋がるときは繋がってしまうものではないでしょうか。
以上のことを勘案し、冒頭に戻りますと、日和佐は漁師町なのに農村系の祭りを取り入れて、独自の進化を遂げ、「ちょうさ」という型をいじり倒している稀な町であると思います。
あれだけ大阪に憧れているのに、ちょうさの大きさは中型で、当時は裕福だったにも拘らず彫刻は控えめ、房も小さく、雌の太鼓なのに雄のようなシンプルさは、あきらかに機動性重視の日和佐特有の事情といえるでしょう。
しかも、漁師町のせっかちさからか、ほとんどの布団太鼓が四拍子で足並みを揃えて担ぐのに対して、日和佐は二拍子で好き勝手……。
と、あれこれと書いてしまいましたが、つまり、日和佐のちょうさは狭義のソレには当てはまりませんが、広義という制約のなさから、目的外使用の連発にて、ちょうさ(布団太鼓)界でも稀な姿形になっていったような気がします。
まとめ(真に受けないでね☆彡)
日和佐の布団太鼓は、目的外使用による水陸両用ホバークラフト的な屋台で、大阪発祥、独自カスタム。
呼び名も、大阪方言の掛け声から。
結論すると、他所と比べても何も得られないので、もう「日和佐型」と呼ばせてくださいm(__)m
お祭り擬人化をはじめて、わりと日和佐のちょうさは観察しているつもりなのですが、どうしても十分ではないところが……。
それは、雲板部分(ふとんを受ける台)の彫刻なのですが、残念ながら、しめ縄によって完全には顕になっておりません(ToT)
桜町などしめ縄が大きすぎて全滅な次第でありまして、組み立てに関わる若連中以外は、まじまじと見る機会はないのではないでしょうか。

(しめ縄が大きすぎて彫刻が見えない(汗)
一見学者としましては、その合間からチラ見するしかないわけでして、ざっと見たところ、日和佐のちょうさは、瑞獣に代表される彫り物がメインであると思います。
特に前面に竜をもってくるところなどは、雨乞いというよりは、漁師町的に水のカミ様を意識した作りに。
本町には、霊獣としての亀だと思ったのですが、よく見ると魚とセットで、しかも反対側には鶴っぽい彫刻があったりして、治水を願う意味合いではないのか?と思ったり。
また、ほぼ全町、木鼻には、威厳を表すためか仏教美術的な施しなのかは知りませんが、唐獅子が。
桜町には獏?っぽい木鼻でおめでたい感じであります。
中村町にも獏?っぽい木鼻がありますが、彫刻の裏地の青っぽい部分と、カチコミ風の部分が謎であります。

(他の町にはない風格)
その点、奥河町はしめ縄を前方にしか締めていませんから、彫刻見放題!でして、全面、唐獅子牡丹で潔が良い!
一見すると、バリエーションが不足しているような感じもしますが、一貫したメッセージを発しているのは奥河町だけだと思います。

法話的に言うと、唐獅子牡丹の意味するものは、「安心して身を寄せられる安住の地はどこにあるか?」ということ。
めちゃめちゃ強くて怖いものなしの獅子でも、自分の体毛の中の虫だけには勝てない。しかし、牡丹から滴り落ちる夜露に濡れると虫は死んでしまうので、獅子は牡丹の下で寝るそうな。
確かに、奥河町の木鼻は、ちゃんと牡丹の下に唐獅子が休んでおりまして、他の町の木鼻(唐獅子)とは意味合いが違っているように思います。

小さい声でいいますと、奥河町は他の町よりも組み立てが少し甘くて、いつもどこかが歪んでいたりシワが寄ったりしております。だから、過去の時代、しめ縄をうっかり締め忘れてしまったのが伝わってしまい、現在のような形になっているのではないか?
とその構造的な違和感と他の町との比較をもって見ていたわけであります。
しかし、浅はかでしたm(__)m
聖と俗を仕切るしめ縄を奥河町の木鼻に引っ掛けしまうと、牡丹と獅子を隔ててしまい、そこが安住の地ではなくなってしまうおそれが。
ゆえにか、心のよりどころを守るために、あえてしめ縄を木鼻に引っ掛け巻かない方針なのではないでしょうか?
と、またもや勝手な想像をしておりまして、こういう点も考えてみたいなと思っている次第で……。
つまり、まとめますと、奥河町以外の彫刻の部分が、
「気になります!」←千反田えるっぽく
よかったら、写真など情報をお寄せ下さいm(__)m
マンガ公開しました〜。
今回は、中村町のお話し。
ついでに、キャラクター設定も追加しました。
いやはや、中村町でイメージするのは、優等生なメガネっ娘ですよね!?
演奏が得意なのは周知のとおりで、組織力が高く真面目で、流行にも敏感。
他の町がやらないようなことでも、さらりとやってのけるフットワークの軽さも( ´∀`)bグッ!
首輪は、金のしめ縄のつもりです……。

(動画:YouTubeより)
毎度ながら書いているのですが、おもしろいもので、日和佐のちょうさ(布団太鼓)は“大阪型”と“堺型”が混じったような形態をしております。
明確に「型」を断定することはできないのですが、その特徴から限りなく大阪型であるとか、限りなく堺型というふうに勝手に呼んでおります。なので、あまり真に受けないようお願い申し上げつつ、堺型の特徴である“通し柱”の補足を少し。
堺型の大きな特徴としましては、四柱が下(地面)まで通っているということです。

(掲載:祭道楽のだんじり見聞録!)
しかし、ここでミスリードしてしまいそうなのは、日和佐のちょうさが海に入ることが前提で組まれているということであります。
海に入る。すなわち、海水に浸かるために、海に入らない他の地域の屋台よりも痛みが激しく、勾欄(こうらん)から下の部分を頻繁に改修、新調してきたため、堺型特有の通し柱であるかどうかの判断がしにくくなっていると思います。
図にもあるように、堺型の柱は、縁束(えんずか)と一体化してしまって、交換することが想定されていない感じの作りであります。

一方、日和佐のそれは、海水の流れをよくするためか、下図・土呂幕(どろまく)もないほどのシンプルさなのですが、その土呂幕部分の縁葛(えんかずら)辺りにまで支柱が通っているか?いないか?という判断において、
「堺型っぽい!大阪型っぽい!!」
と呼んでいるわけです。
これに関しての解釈も、人それぞれでして、ある人は“大阪型”だといい、またある人は“堺型”だといいます。これらの解釈のズレはおそらく、だんじりの通し柱の発想(縁葛で止まっている)が布団太鼓にも持ち込まれ、わかっているのに見誤る、といった状態になっているのではないでしょうか。

(掲載:泉州泉佐野・春日町布団太鼓)
また本来は、勾欄(こうらん)や縁板(えんいた)にも細々とした彫刻が入るらしいのですが、海対策として、あえて日和佐のちょうさは彫刻を施していないというのが、真相であると思います。
ゆえにか、学術的には、日和佐のちょうさは何物でもないのかもしれませんし、大阪で一番古い布団太鼓が1855年頃のものであることを考えても、発祥の上方に原型を求めるのではなく、それよりもさらに古い日和佐の布団太鼓にこそ、原型を見ることができるのではないか?と偉そうなことを思ったり……。
ともあれ、その特有の構造によって、確認の土台と認識がズレてしまっている感じにΣ(・∀・;)
日和佐・各町の方に、通し柱のことを尋ねると、どの部分を起点にするかによって、返ってくる回答が違って、おかしいな〜?と思っていた次第であります。
ちなみに、サンプルの写真は、本町のものでありまして、まじまじ見ると、堺型っぽいちょうさであることが判明しました!
おわり。
お祭り擬人化をノリではじめて、はや三ヶ月余りが過ぎました。
当初は、ちょうさを萌えキャラにしたら怒られるのではないか?とか思ってやっておりましたが、おおむね好意的に見ていただいており感謝感激雨あられ(古)であります。
中には、ガチ祭りに萌えか!?という意見もあるかと思いますが――、
突然ながら、みなさま、ちょうさ(布団太鼓)にも雌雄があるのをご存知でしょうか?
大きく分けて、雄太(おんた)と雌太(めんた)といいまして、見分け方としましては、雄はトンボが上を向いているのに対して、雌は下や横を向いております。

(掲載:河内の銘太鼓台)
やはり、雄の方がトンボにも勢いがあるのですね\(^o^)/チ◯コみたいだー!!

(日和佐のちょうさは、すべて雌太)
一方、雌の布団太鼓は、装飾が多めに施される傾向があります。
つまり、この分類的にいいますと、日和佐のちょうさは女の子なわけでして、この辺は、確信をもって萌えキャラで差し支えないと思います。

ところがどっこい、日和佐のソレは、雌太なのに雄太のようにシンプルな形状をしており、水引幕(みずひきまく)や高欄(こうらん)、土呂幕(どろまく)がそのようなのも特徴的だと思います。
おそらく、日和佐の娘たちは海水浴(禊)をしますから、しぜん、そういう加減になっていったのではないでしょうか?
そう考えると、大阪型と堺型が混じり合い、そこへ堺系と京都系の彫刻が施される。雌雄も判然とせず、実に独自に進化したちょうさだなと思う次第でありますヽ(´エ`)ノ
日和佐の屋台は、実にガラパゴス化していて面白いですぅ。