マンガ公開しました(第2回・その4)
マンガ公開しました〜。
ついに全員、出揃った?!
なんだか不完全燃焼な結末に、祭りへの想いを馳せさせろ!
でも、誰か忘れている気がする・・・・・・。

お祭り擬人化とはあまり関係ないのですが、日和佐城の横に神社があるというので先日、登ってきました。


なんでも、中村町が管理しているというのでこれはなにかあるぞ!と思い、看板をつらつら読むに、ただの権現さんということで、その時はスルーしてしまったわけです。
ところが、よくよく調べると祀られているのは、オオワタツミ(海のカミ様)と知って、なるほどそうか!と一人で納得したりしなかったり。
オオワタツミとは、日和佐八幡神社でも祀られているタマヨリヒメの父親で、たぶん鴨族(賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)のことなんだろうと以前にもブログに書きました。
(※ここでいう鴨族とは、神話をトレースする以前の動きという意味であり、タマヨリヒメも海のカミ様の娘としてではありませんm(__)m
説明は省きますが、なんというか、鴨族はいろいろいて混同されやすいのと、かと思えばどこかで繋がったり、タマヨリヒメという名前も、巫女としての普通名詞と固有名詞が行ったり来たりであります)
中村町は、どこか日和佐八幡神社の三柱のうち、タマヨリヒメが好きっぽいし、城山(日和佐城)にて父親も祀ってしまうのは、鴨族の二つ巴が過去から現在に入ってきている証拠なのではないでしょうか。鴨族にかかわる神社の布団太鼓のトンボ(まくら)と中村町が同じなのもしかり。
ただ、ここでいう鴨族というのは、大三島を拠点とする人たちで、祀られているのは山のカミ様のオオヤマツミなんですよね(汗
まあ、神話的には、山と海のパワーを皇室に注入しなければならないから、この辺は、いろんな説によってぼんやりしているのかもしれません。
そういう観点から、町の人に訊いても、誰も知らないし意識したこともないそうですが、習慣や慣習は無意識に受け継いでいるものですから、たぶん、何かがあるのでしょう。
この辺は、近々、神話とかを引いて語ってみたいと思います(・∀・)
↓ここからは別に読まなくてもいいよ♪
蛇足ではありますが、人類、ルーツを辿ってしまうと、たぶんアフリカのメスゴリラなのでしょうけど、その上にいろんなエピソードが重なって、現代に伝わっているから面白いのだと思います。
確かに大和政権は、権力や正当性を誇示するために各地の豪族の話とかを習合していきましたけど、他所の国と違って日本の神話は、ニュアンスは違えど、勝手にエピソードを改ざんできないような仕組みによって編纂された日本人としての感覚的なルーツなのだと思います。
神話が真実ではないのでしょうけど、神話は真実を超えた世界を映し出していて、なが〜い歳月を経て、日本は自然発生的な国家形成をとげたために、神話でなければこの国を語れないから、神話と真実を区別しながら、歴史の背景を読みましょう!
ということを、神道史家で評論家の高森明勅も言っております。
さておきついでに、海のカミには、このオオワタツミとは別に住吉三神というのがおりますね。
この三神はイザナキが黄泉の国から逃げ帰って「橘の小戸の阿波岐原」での禊ぎによって生まれております。
イザナミとあんなことやそんなことをやって生まれたオオワタツミとは違うわけですが、ついでのついでに書いておきますと――、
「橘の小戸の阿波岐原」とは、もしかしたら宮崎ではなく徳島なんじゃないでしょうかね。
阿波の別名は、ウカノミタマ(←いなりこんこんは萌える)と混同されるオオゲツヒメでして、口やら尻から出した食べ物を高天原から追放されたスサノオに振る舞い怒らせ殺されたというカミ様であります。
なんだか、身体から出たものと徳島周辺の地名が似ていてこじつけじみて面白いです。
また、丹後の国の風土記の「奈具の社」で、天女の養父母となった和奈佐老父・和奈佐老女のルーツが、阿波国の和奈佐・海部氏(徳島県海部郡海陽町)だそうで、なんでも、古代日本の海運の中心地だったそうです。
いまでは、想像もできないですね(・∀・)
1445年東大寺伝来史料にも、海部船籍の船が、兵庫入港数が四国一であるとの記録が残っているくらいですから、「海原を治めよ」とスサノオがイザナキに命じられて降り立ったのは徳島県南か!?
なにより、島根の阿波枳閉和奈佐比古(あはきへわなさひこ)神社に阿波と和奈佐があるのが偶然すぎて( ̄□ ̄;)!!であります。忌部町とかの地名もありますしね☆彡
すると、天女も徳島からやってきたということになりますが、海原の国の氏族で行動範囲が広かったことを勘案するとなっとくしま!←(ほとんど死語)であります。
あの辺は、ワサとかナサという地名もありましたし、空海に日が昇るから「ヒワサにしとけ」と言われて今の日和佐があるわけもわかりますね。
嗚呼!なんでこんな歴史的に値打ちのある地名をしょーもない地名にしてしまったのでしょう(TдT)
合併は時代の要請なんでしょうけど、安易な名前にしてしまうと産土神の管轄もわかりにくくなるからけっこう嫌だなぁ
全国たいはんの布団太鼓は、天幕と呼ばれるものがなくて、布団の中に人が乗っていることが多いのに、なぜ日和佐の太鼓は天幕があるのか?

という疑問をああだこうだと考えて、うっかり学者肌になりそうだったのですが、組み立て風景や地元の人の話をきいていると、案外、テキトーで構造上のごまかしっぽいと思えるようになってきました(^^ゞ
画像を見ていただくと一目瞭然なのですが、筋かいの入った木枠を重ねて、

ズレないように中央でしばる。

念には念を入れて、筋かいを貫通するように棒で固定すると、なんということか!
アンテナみたいにソレがぴょこーんと出てしまう。


これはいけないと、幕でせっせと隠したらば、ちょうさおなじみ天幕だ!!
この理屈で察すれば、奥河町の天幕のバランスが悪いのは、固定する穴の位置が内側にあるのか、棒が曲がっているのかどちらかであると思います。
棒も長いから、雨が降ると天幕をとって傘をさすという感じに。あくまで推測ですが、、、。
旗についてもそうですが、戦時中の国威発揚の名残とか、いろんな時代や事情を引きずって、日和佐のちょうさは体をなしているのだと思います。
国威発揚とかきくと、思い込みでアレルギーをおこす方もいらっしゃいますが、ご先祖が舐められないように戦ってくれたおかげで、こうやってのほほんと暮らし、祭りができるわけで、我々は、歴史に生かされているということがよ〜くわかる部位でしょう。
世界は混沌としていて、商法が支配する帝国主義の時代に逆戻りしていますけど、たかだかお金儲けのために歴史とか国柄を手放さないぞ!という決意表明のために、これからも、旗は掲げてほしいと思う所存であります。
ともあれ、布団の中に乗り込んで、餅でも投げたら年寄りのギャラリーが増えてにわかに賑ずくと思いますのん(汗

(日章旗と旭日旗の奥河町)
日和佐のちょうさが志和岐へ行ったという件で、志和岐のかき太鼓の唄の資料を入手しました。
ざっと目を通してみますと、けっこう新しい感じの歌詞でしたφ(..)
但し書きに、即興で歌うこともあると書いてあるので、たぶん「さーしましょう♪」以外の部分はそれほど意味はないのかもしれません。
大阪によくある、「べーらべーら」の唄が浄瑠璃くずしで適当なのと同じなのかな?
さておき気になるのは、歌い出しの前の
まかせ・・・まかせ・・・
ちょおせ・・・どんでんどん
という部分が、伊座利の太鼓唄に似ていませんかね。
伊座利のたいこ(太鼓台)。その?:南新桜より
ちょっと調べれば同じ美波町だからわかりそうなものなのですが、それができない理由として、
ということが、最大の原因であると思います。1はしょうがないとしても、ネットで調べて写真とか動画一つ出てこないのは、後世に残すという意味では残念であると思いますm(__)m
そんなこんなで見えてくるものは、日和佐からの二次的伝播で始まったであろう志和岐の祭りは、お隣の伊座利をベースに日和佐が乗っかっているイメージ。
志和岐の太鼓は、大正末期から昭和初期頃に日和佐からやってきましたが、大正初期の伊座利の雰囲気でやっているので、挟み撃ちの二次的伝播なのかなぁと勝手に想像しているわけです。
ゆえに、日和佐からやってきたのに色キチだったりするのは、伊座利の影響でしょうか?
伊座利の太鼓は、色キチだったのがいつしか源氏をイメージして赤になり、しばしの休止後、『海部の民俗芸能フェスティバル(2012年11月25日)』への出場がきっかけで色キチ(5色)に戻ったとか。
唄にもそのことが扱われていて、赤と白の水引と幕の関係ではないというのが、おもしろいところだと思います。
結論としては、まだまだ歴史が浅いので、本気になればいくらでも情報がポロッと出てきそうな気がして、役場の支部の方とか、情報提供を呼びかけてもらえないかな〜?と思ったり(汗
かしらかしらご存知かしら。
昔の奥河町の天幕は、白かったんですわよ( >д<)、;'.・ ィクシッ
他の町も、旗が若干違いますよね。
中村町のTさんいわく、旗は大昔から掲げていたのではなく戦時中の国威発揚の名残かもしれないとのことでした。
なるほど、でも70年前の戎濱には既に掲げられていましたから、日清日露戦争のころは、どうだったんでしょうかね?
伊座利みたいに、写真はなくても絵で残っていたりしたらいいんですけどね(^^ゞ

ところで、昔の写真をたくさんご提供いただいたので、こっそりアルバムを作ってみました。
色キチの戎濱とか、たいへん貴重な思い出であります。
徳島大学総合学科の学生さんが、2012年の卒業論文に日和佐の秋祭りを取り上げていたので読んでみた。
一見、当たり前のことのように思えましたが、こうやって知識体系化されたものはなかったので、大変興味深いものでありましたm(__)m

この記述と写真は決定的に違うけど――、まあいいか。ちゃんちゃん♪

と、終わってしまうと後学的にどうかと思うので、心を鬼にして、つついてみたいと思います。
とはいえ、これを書いている人と概ね理解は同じなのですが、水との関わりについていい線までいっているので、沖縄のニライカナイ信仰とかを掘り下げて日本人の感覚を語ってほしかったのと、ワープロのせいかもしれませんが、カミ様を「神」と書いている時点で、一神教でいうGOTっぽい捉え方なのが腑に落ちなかったり。
このブログでは、一応、神のことを「カミ」と表記しているのは、そういった事情からであります。
そんなことはさておき、今後いかに継続していくべきか?という問いに関しても、少し違う意見をもっております。
論文では、祭りや共同体の衰退を総じて人口減少という切り口でしか語っておらず、推移も鵜呑みでフィールドワークが活かしきれてないのが残念。地元の方も取りこぼしてきたであろうと虫食い状の資料もそのまま。
あまりいうと関係者に怒られそうなのですが、日和佐の人口は役場発表のものの半分くらいだと思ったほうがいいでしょう。
これは、消防団が日々、足で調べた日和佐の実態でありますし、いつまでもジリ貧政策をとり続けて居心地のいい人たちがいることや、おかしげな施策に対して物申す町民オンブズマン的な人たちのなさが、町の衰退を加速させる核になっていると思うわけであります。
居住者を獲得するにしても、家主が物置代わりに貸さないし、貸しても補助金まみれの誘致に終わったりして、結局、こういうことを悪者になって言ってくれる人も不足気味。
問題発言をしますと、祭りというものは、半分は氏子のためのものであり、産土神社への奉納っぽい性格でもあろうから、外部から人を呼んでくる必要はないかと(-_-)
これを「閉鎖的」と呼ぶならば、どこか認識が違っていて、例えば、見ず知らずの人の、親戚の人の、実家で、飛び入りの誕生パーティーに参加するほどの違和感が(~o~)
まあ、あくまで原則論ですが・・・。
保存会の方々のインタビューでは、「変わらずにいるためには、変わらなければいけない」と、イタリアだったか「山猫」という映画のセリフみたいなやりとりがあります。
それは、一面の真理でしょうけど、論文のように、人手不足の解消をPR不足と直結させ、閉鎖性の排除や説明責任、交通の便にもってゆくのは、何かが違うなと思ったわけで、それよか、町を離れた地元出身者に効くような泥臭い取り組みの方が、共同体というものは、生きてくるように思うわけです。
読まれている方は、ずいぶん堅物な奴だと思われるかもしれませんけど、「型」のみが残った伝統など、伝統を壊す作用しか生みませんし、運行を至上主義に据えて外国人や女の子に担がせることを良しとしてしまうくらいであれば、断腸の思いで、幕を下ろしてほしいと傾いてゆくかもしれません。
これは、乱暴な持論なのですが、文化伝統その他もろもろ、継承していくためには、どこかに政治がいるんじゃないだろうかと常々考えている次第であります( ゚Д゚)y─┛~~
おわり。←けっこう真剣に考えているので怒らないでね☆彡
太鼓台は宇宙山。
などと壮大なことを神戸芸術工科大学(アジアン・デザイン研究所)の論文にかかれているという紹介をうけて、ちょっくら読んでみましたよ。
すみませんm(__)m
感想は、(´ヘ`;)ウーム…といった具合で、調べすぎて恐ろしくこじつけ感が満載な内容にたじたじ。
いろいろと説はあるんだろうけど、無理やりアジアとか宇宙と結びつけたりして、何か大事なことを忘れてはいませんかね。
太鼓台がカミの依代であるとか雨乞いの道具であったという理解は同じなのですが、そこには一神教の神とか仏という存在が中心にあって、まったく日本的な神事の道具として捉えられていないんですよね〜。
ここは八百万の国であるぞよ!
だからか、太鼓台を古代インドの世界観の中でそびえる山・須弥山(しゅみせん)といってみたり、山鉾を宇宙樹、臨時の依代である神籬(ひもろぎ)を横文字のアジアンテイストにしてみたりで、おのず、「生命樹」とか「宇宙樹」という結論に。
いやいや、太鼓台は、稲作的な意味合いで田んぼを連想する方が、日本的でありましょう。
だからニニギノミコト天孫降臨の地である宮崎で四つ太鼓が始まったのではないですかね。
しかし、論文には、神社とか神道の成り立ちがすっぽり抜けていたりして、あえて言うならば、形而上学に与しすぎなのが、そこはかとない違和感の正体であるのかもしれません。「道徳→宗教→形而上学」という一歩手前で踏みとどまる健全な精神が置き去りにされていて、やれアジア々々と繋いでいく手法に権威主義がぷんぷんであります。
なにせ、太鼓屋台文化圏としては、一番中途半端であろう瀬戸内のそれをベースに、インドやイランに逆回転したところで、そりゃあ、文明の終着点である日本とは通ずるものはあるでしょう。
それをあたかも新発見のように無理やりこじつけて「宇宙だ!」という結論になると、日本的な感覚や叡智でもって論じられているのかと心配になったりならなかったり(-_-)
おまけに、全ての太鼓台は仲間だと言いつつ、確信はないが須弥山だという曖昧さの中には、稲作の藁を積み上げるというイメージがどこにもないじゃないですか( ̄□ ̄;)!!
これを書いている人の結論としましては、讃岐系ちょうさの言い分とたいして変わらない説だと思った次第で。←関係者の方、怒らないでね☆彡
おわり。
先日、美波町役場のT様よりビデオを提供いただきましたのでアップしました。
版権は大丈夫か?!と思いましたが、制作会社が潰れているらしいので、たぶん問題ないでしょう(・ω<)
なんでも、平成14年制作の日和佐八幡神社秋祭りのドキュメント?になります。
全町まんべんなく収録され、寺込のだんじり唄まであるという大変貴重な内容ですよ!!

ずっと調べておりました“寺込のだんじり唄”。
寺込の人に訊いても「知らん」「知らん!」とけっこうお手上げ状態だったのですが、役場の事業で作られたというビデオに記録されておりました(^O^)
意外とあっさりな感じであります。案外、取りこぼした歴史なども情報提供を呼びかければ、ぽろっと出てくるのかもしれません。
提供いただいたTさま、どうもありがとうございますm(__)m
唄っていたのは、伊勢音頭やたたら節などらしく、このビデオでは、「たたら音頭七福神」の唄。実に名調子であります。
この類は、徳島県南地域でよく唄われていたらしいのですが――、詳しいことは、また後日。