新着情報
2014年2月
日和佐のちょうさが志和岐へ行ったという件で、志和岐のかき太鼓の唄の資料を入手しました。
→かき太鼓の唄(志和岐吉野神社)
ざっと目を通してみますと、けっこう新しい感じの歌詞でしたφ(..)
但し書きに、即興で歌うこともあると書いてあるので、たぶん「さーしましょう♪」以外の部分はそれほど意味はないのかもしれません。
大阪によくある、「べーらべーら」の唄が浄瑠璃くずしで適当なのと同じなのかな?
さておき気になるのは、歌い出しの前の
まかせ・・・まかせ・・・
ちょおせ・・・どんでんどん
という部分が、伊座利の太鼓唄に似ていませんかね。
伊座利のたいこ(太鼓台)。その?:南新桜より
ちょっと調べれば同じ美波町だからわかりそうなものなのですが、それができない理由として、
-
祭りの日が同じ
-
動画や写真がアップされない
ということが、最大の原因であると思います。1はしょうがないとしても、ネットで調べて写真とか動画一つ出てこないのは、後世に残すという意味では残念であると思いますm(__)m
そんなこんなで見えてくるものは、日和佐からの二次的伝播で始まったであろう志和岐の祭りは、お隣の伊座利をベースに日和佐が乗っかっているイメージ。
志和岐の太鼓は、大正末期から昭和初期頃に日和佐からやってきましたが、大正初期の伊座利の雰囲気でやっているので、挟み撃ちの二次的伝播なのかなぁと勝手に想像しているわけです。
ゆえに、日和佐からやってきたのに色キチだったりするのは、伊座利の影響でしょうか?
伊座利の太鼓は、色キチだったのがいつしか源氏をイメージして赤になり、しばしの休止後、『海部の民俗芸能フェスティバル(2012年11月25日)』への出場がきっかけで色キチ(5色)に戻ったとか。
唄にもそのことが扱われていて、赤と白の水引と幕の関係ではないというのが、おもしろいところだと思います。
結論としては、まだまだ歴史が浅いので、本気になればいくらでも情報がポロッと出てきそうな気がして、役場の支部の方とか、情報提供を呼びかけてもらえないかな〜?と思ったり(汗
かしらかしらご存知かしら。
昔の奥河町の天幕は、白かったんですわよ( >д<)、;'.・ ィクシッ
他の町も、旗が若干違いますよね。
中村町のTさんいわく、旗は大昔から掲げていたのではなく戦時中の国威発揚の名残かもしれないとのことでした。
なるほど、でも70年前の戎濱には既に掲げられていましたから、日清日露戦争のころは、どうだったんでしょうかね?
伊座利みたいに、写真はなくても絵で残っていたりしたらいいんですけどね(^^ゞ



ところで、昔の写真をたくさんご提供いただいたので、こっそりアルバムを作ってみました。
色キチの戎濱とか、たいへん貴重な思い出であります。
徳島大学総合学科の学生さんが、2012年の卒業論文に日和佐の秋祭りを取り上げていたので読んでみた。
一見、当たり前のことのように思えましたが、こうやって知識体系化されたものはなかったので、大変興味深いものでありましたm(__)m

この記述と写真は決定的に違うけど――、まあいいか。ちゃんちゃん♪

と、終わってしまうと後学的にどうかと思うので、心を鬼にして、つついてみたいと思います。
とはいえ、これを書いている人と概ね理解は同じなのですが、水との関わりについていい線までいっているので、沖縄のニライカナイ信仰とかを掘り下げて日本人の感覚を語ってほしかったのと、ワープロのせいかもしれませんが、カミ様を「神」と書いている時点で、一神教でいうGOTっぽい捉え方なのが腑に落ちなかったり。
このブログでは、一応、神のことを「カミ」と表記しているのは、そういった事情からであります。
そんなことはさておき、今後いかに継続していくべきか?という問いに関しても、少し違う意見をもっております。
論文では、祭りや共同体の衰退を総じて人口減少という切り口でしか語っておらず、推移も鵜呑みでフィールドワークが活かしきれてないのが残念。地元の方も取りこぼしてきたであろうと虫食い状の資料もそのまま。
あまりいうと関係者に怒られそうなのですが、日和佐の人口は役場発表のものの半分くらいだと思ったほうがいいでしょう。
これは、消防団が日々、足で調べた日和佐の実態でありますし、いつまでもジリ貧政策をとり続けて居心地のいい人たちがいることや、おかしげな施策に対して物申す町民オンブズマン的な人たちのなさが、町の衰退を加速させる核になっていると思うわけであります。
居住者を獲得するにしても、家主が物置代わりに貸さないし、貸しても補助金まみれの誘致に終わったりして、結局、こういうことを悪者になって言ってくれる人も不足気味。
問題発言をしますと、祭りというものは、半分は氏子のためのものであり、産土神社への奉納っぽい性格でもあろうから、外部から人を呼んでくる必要はないかと(-_-)
これを「閉鎖的」と呼ぶならば、どこか認識が違っていて、例えば、見ず知らずの人の、親戚の人の、実家で、飛び入りの誕生パーティーに参加するほどの違和感が(~o~)
まあ、あくまで原則論ですが・・・。
保存会の方々のインタビューでは、「変わらずにいるためには、変わらなければいけない」と、イタリアだったか「山猫」という映画のセリフみたいなやりとりがあります。
それは、一面の真理でしょうけど、論文のように、人手不足の解消をPR不足と直結させ、閉鎖性の排除や説明責任、交通の便にもってゆくのは、何かが違うなと思ったわけで、それよか、町を離れた地元出身者に効くような泥臭い取り組みの方が、共同体というものは、生きてくるように思うわけです。
読まれている方は、ずいぶん堅物な奴だと思われるかもしれませんけど、「型」のみが残った伝統など、伝統を壊す作用しか生みませんし、運行を至上主義に据えて外国人や女の子に担がせることを良しとしてしまうくらいであれば、断腸の思いで、幕を下ろしてほしいと傾いてゆくかもしれません。
これは、乱暴な持論なのですが、文化伝統その他もろもろ、継承していくためには、どこかに政治がいるんじゃないだろうかと常々考えている次第であります( ゚Д゚)y─┛~~
おわり。←けっこう真剣に考えているので怒らないでね☆彡
太鼓台は宇宙山。
などと壮大なことを神戸芸術工科大学(アジアン・デザイン研究所)の論文にかかれているという紹介をうけて、ちょっくら読んでみましたよ。
すみませんm(__)m
感想は、(´ヘ`;)ウーム…といった具合で、調べすぎて恐ろしくこじつけ感が満載な内容にたじたじ。
いろいろと説はあるんだろうけど、無理やりアジアとか宇宙と結びつけたりして、何か大事なことを忘れてはいませんかね。
太鼓台がカミの依代であるとか雨乞いの道具であったという理解は同じなのですが、そこには一神教の神とか仏という存在が中心にあって、まったく日本的な神事の道具として捉えられていないんですよね〜。
ここは八百万の国であるぞよ!
だからか、太鼓台を古代インドの世界観の中でそびえる山・須弥山(しゅみせん)といってみたり、山鉾を宇宙樹、臨時の依代である神籬(ひもろぎ)を横文字のアジアンテイストにしてみたりで、おのず、「生命樹」とか「宇宙樹」という結論に。
いやいや、太鼓台は、稲作的な意味合いで田んぼを連想する方が、日本的でありましょう。
だからニニギノミコト天孫降臨の地である宮崎で四つ太鼓が始まったのではないですかね。
しかし、論文には、神社とか神道の成り立ちがすっぽり抜けていたりして、あえて言うならば、形而上学に与しすぎなのが、そこはかとない違和感の正体であるのかもしれません。「道徳→宗教→形而上学」という一歩手前で踏みとどまる健全な精神が置き去りにされていて、やれアジア々々と繋いでいく手法に権威主義がぷんぷんであります。
なにせ、太鼓屋台文化圏としては、一番中途半端であろう瀬戸内のそれをベースに、インドやイランに逆回転したところで、そりゃあ、文明の終着点である日本とは通ずるものはあるでしょう。
それをあたかも新発見のように無理やりこじつけて「宇宙だ!」という結論になると、日本的な感覚や叡智でもって論じられているのかと心配になったりならなかったり(-_-)
おまけに、全ての太鼓台は仲間だと言いつつ、確信はないが須弥山だという曖昧さの中には、稲作の藁を積み上げるというイメージがどこにもないじゃないですか( ̄□ ̄;)!!
これを書いている人の結論としましては、讃岐系ちょうさの言い分とたいして変わらない説だと思った次第で。←関係者の方、怒らないでね☆彡
おわり。
先日、美波町役場のT様よりビデオを提供いただきましたのでアップしました。
版権は大丈夫か?!と思いましたが、制作会社が潰れているらしいので、たぶん問題ないでしょう(・ω<)
なんでも、平成14年制作の日和佐八幡神社秋祭りのドキュメント?になります。
全町まんべんなく収録され、寺込のだんじり唄まであるという大変貴重な内容ですよ!!

2014/02/24
ずっと調べておりました“寺込のだんじり唄”。
寺込の人に訊いても「知らん」「知らん!」とけっこうお手上げ状態だったのですが、役場の事業で作られたというビデオに記録されておりました(^O^)
意外とあっさりな感じであります。案外、取りこぼした歴史なども情報提供を呼びかければ、ぽろっと出てくるのかもしれません。
提供いただいたTさま、どうもありがとうございますm(__)m
唄っていたのは、伊勢音頭やたたら節などらしく、このビデオでは、「たたら音頭七福神」の唄。実に名調子であります。
この類は、徳島県南地域でよく唄われていたらしいのですが――、詳しいことは、また後日。
マンガ公開しました〜。
今回は、奥河町と戎濱のお話しです。
赤がデファクトスタンダードだと言い切る奥河町。
それもそうです。
布団太鼓は本来、農村系のお祭りで、米の奉納に赤の幕と白の水引をつけていたそうですから、赤が元祖なんです。
そんな確固たる自信に満ちたジュンちゃんと、第二、第三形態へと進化したゆき(戎濱)との対比に注目です。
ついでに、キャラクター設定も追加しました。
関係者の方々、すみません。
作者の中では、こんなイメージなんですm(__)m

日和佐八幡神社・秋祭り(奥河町)
日和佐八幡神社・秋祭り(戎濱)
昨日は、建国記念日(皇紀2674年)でしたね!
いや〜、めでたいめでたいヽ(^o^)丿
え?何の日か知らない!?
神武天皇が即位した日ですよ奥さん。日和佐八幡神社にも祀られている玉依姫命(たまよりひめのみこと)の末っ子ですがな。わかりましたか。
この神武天皇から今上天皇(現在)までずーっと神話の世界から続いている日本は、本当にクールですよね。三種の神器なんか、本当にありますし……。
ともあれ、めでたい!!
なかには、ありもしない軍国主義と日本を重ねて、建国すらも否定してしまう残念な方々もいらっしゃるようですが、このページをご覧になっているお祭り好きなみなさまは、もちろん日本大好きですよね( ´∀`)
さておき、日和佐八幡神社のブログでも建国記念日の式典の模様が掲載されておりますのでご紹介。
ちょうさとは関係ないですが、ちょうさはカミ様あってこそですし、そのカミ様だって皇室あってこそであるという認識はとっても大事だと思います。
だから、何が何でも取り上げるぞい!必要があらば、ちょうさを飛び越して神話のマンガにもしてやる所存であります。
式典では、君が代や歌曲「紀元節」の斉唱のほか、浦安の舞の奉納がなされたそうです。
君が代はご存知かと思われますが、「紀元節」はこんな感じ↓です。
浦安の舞は、ネズミーランドのカーニバル的なものではなく、比較的新しい雅楽?といった感じで昭和天皇の詠んだ詩となっております。
“浦”とは日本の古語で「こころ」、“安”は「やすらぎ」、つまり、こころの安息という意味らしいです。やっぱり平和が一番であります。
そのための平和を守るために日本人としてしっかりと暮らし、外の世界と向き合い、ちゃんとコミュニティーを死守していかないといけませんね。
宇佐神宮の宮司も言っていましたが、社会とは“神社に行く”ことを指すそうで、神社に地域の人たちが集まって、中間共同体のことを話し合う。
これが、本来の利用方法であり、きっかけなどなくてもふらっと出かけてもOK牧場なのだそうです。
参拝に熱心でなくても、神社への求心力になっているのがまぎれもなくお祭であり、日和佐の場合は、ちょうさであると思います。お祭りバカ、バンザイ!
こんなことを書くと関係者に怒られそうなので小さい声でいいますと、日和佐の秋祭りのフォトコンテストは、写真がキレイなだけだったり、わざとらしく狙ったちょうさのソレばかりで総じてつまらないのですが――、
今年の入賞作品の中の(桜町)は、神社と中間共同体をうまく切り取っていてとてもよかった!
水平はとれていないしピント精度も甘い。一見、狙ったような写真ですけど、神社という社会の中の中間共同体(町内)をちょうさが見守っている構図が花まるを差し上げたいほど素晴らしい(-ω☆)キラリ
( ・`ω・´)「思想が見える……、物語が見える……。
躍動感や外国人にしか視線のいかないカメラマンよりずっとイイ!」
ともあれ、コミュニティーの死守は、お祭りの死守でもあるため、これからも日和佐は変わらず、平凡であってほしいと思います。
そして、人のことは言えないのですが――、上の世代は、下の世代に、平凡の素晴らしさを教えられるオトナになりたいな☆彡
2014/02/12
お久しぶりです。こんにちは。
この文はメモ書き程度のものなので、あまり真に受けないでお読み下さい。
いま、中村町の紋「二つ巴」の意味を調べていて、太鼓の位置関係ではなかろうかとか、いろいろと勝手な想像を巡らして遊んでいるわけでありますが――、

やっぱり真相はわかりません(´・ω・`)ガッカリ…
深く考えると、大変そうなので、戎濱(丸に違い鷹の羽)のように忠臣蔵にあやかって“二つ巴”にしたのではないか?と赤穂大石神社の紋を眺めてみたりみなかったり。
山鹿流の太鼓が日和佐太鼓にところどころ似ているように聴こえたりするのは、(フィクションらしいですが)陣太鼓をイメージしているのではないかとか思ったわけです。
三つ巴が戦いの紋だとするならば、陣太鼓は二つ巴という関係は意外としぜんなわけでして、奥河町のちょうさに「三つ巴」が付いているのに打子には「二つ巴」であるというのが、そういうルーツを垣間見ているよう。
もう一つ、難しく考えてみると、中村町は額に町名ではなく「八幡宮」と掲げてしまうほど、たぶん八幡神が大好きな町であると思うので、その延長線上をカーブしただけかもしれません。
八幡神というのは、神仏習合のいろんなカミ様の集合体でして、日和佐八幡神社も、
-
主神…誉田別命(応神天皇)
-
母神…息長足姫命(神功皇后)
-
妻神…玉依姫命(神武天皇の御母后)
という感じに祀られております。
神話をつつき出すときりがないのですが、妊娠中でも戦う神功皇后とその息子の応神天皇。
諸説はいろいろありますが、ワンピースの登場人物であるルフィの兄・エースみたいな生まれ方をしていて、そのさい、腕の肉が弓具の鞆のように盛り上がっていたそうです。
巴の模様は、鞆からもきているそうなので、武神として八幡神であるわけがわかります。
他、妻神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)(神武天皇の御母后)も祀られておりますが、玉依姫命は海の神の娘でして、神武東征の際に先導役となった海の神=塩椎神(しおつちのかみ)だとされております。
この塩椎神(しおつちのかみ)が武角身(たけつのみ)とたぶん同一人物でありまして、鴨族の祖を指していると思います。そんでもって、鴨族=葛城氏のことでありまして、その家紋が「二つ巴」なのでありました。
だから、中村町の紋のルーツは、玉依姫から鴨族までさかのぼり「二つ巴」を掲げているのではないか?!
という勝手な説の出来上がりであります。
過去のブログ記事に、
讃岐系のちょうさが、九州南部のソレが愛媛とか瀬戸内経由で入ってきたとすると、その根拠は、【カモ氏(鴨・賀茂・加茂)】の祭祀にかかる、大三島の大山祗神社の支配下に置かれた祭りの遺構と考えられるとのこと。
と偉そうなことを書いております。
もうちょうさの話でもなんでもないのですが、この鴨族のルーツは百済からやってきて、愛媛の大三島に上陸、後に関西の方に分流していったとされております。
だから、四国の布団太鼓は、愛媛から香川にかけてなんとなく九州っぽい雰囲気。
対して、徳島の布団太鼓は完全に大阪のものであるにもかかわらず、中村町のちょうさのトンボだけが、讃岐系と同じ結びなのがおそろしく謎であります。


(讃岐系っぽい結び)
もしかすると、中村町のちょうさは、鴨っぽい影響が入った町、もしくは住人によって設計された屋台なのかもしれません。
いずれにせよ、トンボの形にルーツがありそうということで、今日はここまでm(__)m