新着情報
2014年1月
みなさまからの情報を募集しています!
日和佐八幡神社秋祭りにかかせないちょうさ
。
全国的にも稀な目的外使用の水陸両用ホバークラフト的な日和佐のちょうさなのですが、その特異性からガラパゴス化してしまい、資料が不足しております。
昔の写真やエピソードなど、ちょうさに関する情報をお寄せ下さいm(__)m

NOTICE
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個人情報は公開しません。
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送っていただいた資料は、原則、公開を同意していただいたものとします。
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マンガに関する要望などはお受けできません。
特に調べていることがらは、こちら。
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寺込のだんじりの唄について
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初代・戎濱の彫刻が確認できる写真
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志和岐のちょうさの出自について

美波町観光協会の「かめたろうTV」を見ていたら、ふと目に止まった初代・戎濱のちょうさ。
初代の写真は何度か見たことがあったのですが、トンボの部分にご注目。

「トンボの先が上を向いとるー!?」
ということは、当時の戎濱は雄の“ちょうさ”だったのでしょうか\(◎o◎)/!
ちなみに、この写真は70年ほど前のものだそうで、それ以降、50年ほど前の戎濱は、トンボが下を向いていて雌になっております。
ということは、この間に性転換がはかられたのか?はたまた組み立てミスなのか??
ご存じの方いらっしゃいましたら、情報よろしくお願いしますm(__)m
(徳永かめたろう家?のタイムカプセル)
いつも思っていることなのですが、日和佐のちょうさ(布団太鼓)は、あまりにも全国の布団太鼓とことごとく違う感じがしております。
かき棒の組み方にはじまり、拍子の取り方、台座の低さ、全町違うカラフルな布団などなど、大阪とも堺とも違うその構造的な特異性が、正体にモザイクをかけている感じに。
おかげさまで、調べれば調べるほど解から遠ざかっていくという八方ふさがりな状態であります(~o~)
それは、もちろん日和佐が漁師町で、海に入ることを前提に組まれているからに他ならないのでしょうが、そもそも、なぜに農村系の祭りを漁師町が採用したのでしょう?
憶測で言えば、日和佐にちょうさを持ってきた谷屋甚助の感性によるものが大部分を占めると思います。
なぜなら、昔の人はあれこれ論理的には考えたりせずに、歴史によって培われた常識によって物事を判断していたからであります。
だから、案外、大阪で奇妙な形の屋台を見て、
「布団太鼓、超Σd(゚∀゚d)イカス!」
といった物珍しさだったかもしれません。
さておき、
そのちょうさ(布団太鼓)は、本当に合理的な形をしているなぁ〜と思います。
トンボは雨雲、房は雨を表し、おまけに水のカミ様の使いである竜の布団締めや彫刻までもあしらう。
大阪の方へ行くと「べーら べーら べらしょっしょい!」という掛け声もあったりして、これが農村系の祭りであることを証明していると思います。
「べら」とは「米良」つまり、良い米=豊作を表し、良い米ができたぞ!ワッショイワッショイ♪というニュアンスが鈍って「べーらべーら」となっているのだと思います。
東大阪のとある中学校の学校通信(プリント)に、昔は米を奉納するのに赤の幕と白の水引をつけていたことから、太鼓台の布団には「赤」、布団締めは「白」が採用されていったと書かれていました。
真実かどうかは知りませんが、現地の年寄りの話が盛り込まれているので、とても本当くさく理解しました。
だから、全国の布団太鼓(ちょうさ)は赤が多い!!ということでしょうか。
また、以上のことから、豊作を祝うことの他にも、布団太鼓(ちょうさ)は、雨乞いのための道具であったのかもしれません。
そう考えると、水不足でお悩みの讃岐のちょうさなどは、これでもか!というほど大きな竜の刺繍を太鼓にあしらい、布団を締めているのか覆っているのかわからなくなるほど、切迫した危機感が見て取れる感じの仕上がりに(ToT)
讃岐系ちょうさの解説文を見るに、原型は京都の祇園祭で、瀬戸内経由で伝わったとされております。ですが、なぜにそういうことをやっているか?という思想や信ぴょう性が薄くて、単に綺羅びやかさを求め、東に行くほど小物という扱いが多いように思います。
ここでもう少し深堀りしますと、これも仮説ではありますが――、
布団太鼓の起源は、宮崎県や愛媛県に見られる「四ツ太鼓」かもしれないとのこと。
四つ太鼓とは、簡単に言うと、布団のない太鼓屋台みたいなものでしょうか。
分かる気はします。
「稲作の方法を教え、国を治めよ!」と命を受け、ニニギノミコト天孫降臨の地である宮崎県から豊作を祝う祭りが始まったのは理にかなっているし、廻船の発達とともに四国(愛媛)にもソレが入ってきたとも想像できます。
なにせ、四つ太鼓をかき上げるさい「ヨーンヤッサイ!」というのは、愛媛や香川の「ヤッサイヤッサイ!」という掛け声と似ているからです。
香川の方は気を悪くするかもしれないので、小さい声でいいますと、四つ太鼓の担ぎ棒を長サイ棒(ちょうさいぼう)と呼ぶそうで、“ちょうさ”という呼び名は、張さんを讃えるというより、ここからきているのではないかと思います。
広島の布団太鼓のチョーサイもおそらく、この流れの理屈ではないでしょうか。
一方、日和佐はどうか?と言いますと、まぎれもなく堺からダイレクトに伝わっているので、讃岐系のちょうさとは別物であると思います。
讃岐系のちょうさが、九州南部のソレが愛媛とか瀬戸内経由で入ってきたとすると、その根拠は、【カモ氏(鴨・賀茂・加茂)】の祭祀にかかる、大三島の大山祗神社の支配下に置かれた祭りの遺構と考えられるとのこと。
確かに、大阪のものとは大きさや雰囲気があきらかに違うし、災いを払うために始めた祇園祭とは、まったく背景が違っていて、いずれにせよ、日和佐のちょうさは、瀬戸内・四国のソレとは別物であると思えます。
そして、これらの祭りは、1800年頃に広まったということ。
大阪・堺では、江戸中期(1651〜1745)から布団太鼓があったという資料もあり、やっていることは同じでも発祥は、また別物だったのではないでしょうか?
なにせ、四つ太鼓説を採用してしまうと、日和佐・戎町のちょうさは、それよりもはやく存在しているわけでして、年代的にどうもおかしい。なので、やっぱり大阪発祥のものを取り入れたと考えた方が自然で、歴史においても、まったく関係のないところで同じようなことが起きるという「百一匹目のサル」現象にて理解した方がスッキリしそうな感じです。
つまり、都会の子も田舎の子も、誰に教わったわけでもないのに、同じようなことをして遊んだり感じたりして成長するように、文化とは、何の接点がなくとも繋がるときは繋がってしまうものではないでしょうか。
以上のことを勘案し、冒頭に戻りますと、日和佐は漁師町なのに農村系の祭りを取り入れて、独自の進化を遂げ、「ちょうさ」という型をいじり倒している稀な町であると思います。
あれだけ大阪に憧れているのに、ちょうさの大きさは中型で、当時は裕福だったにも拘らず彫刻は控えめ、房も小さく、雌の太鼓なのに雄のようなシンプルさは、あきらかに機動性重視の日和佐特有の事情といえるでしょう。
しかも、漁師町のせっかちさからか、ほとんどの布団太鼓が四拍子で足並みを揃えて担ぐのに対して、日和佐は二拍子で好き勝手……。
と、あれこれと書いてしまいましたが、つまり、日和佐のちょうさは狭義のソレには当てはまりませんが、広義という制約のなさから、目的外使用の連発にて、ちょうさ(布団太鼓)界でも稀な姿形になっていったような気がします。
まとめ(真に受けないでね☆彡)
日和佐の布団太鼓は、目的外使用による水陸両用ホバークラフト的な屋台で、大阪発祥、独自カスタム。
呼び名も、大阪方言の掛け声から。
結論すると、他所と比べても何も得られないので、もう「日和佐型」と呼ばせてくださいm(__)m
お祭り擬人化をはじめて、わりと日和佐のちょうさは観察しているつもりなのですが、どうしても十分ではないところが……。
それは、雲板部分(ふとんを受ける台)の彫刻なのですが、残念ながら、しめ縄によって完全には顕になっておりません(ToT)
桜町などしめ縄が大きすぎて全滅な次第でありまして、組み立てに関わる若連中以外は、まじまじと見る機会はないのではないでしょうか。

(しめ縄が大きすぎて彫刻が見えない(汗)
一見学者としましては、その合間からチラ見するしかないわけでして、ざっと見たところ、日和佐のちょうさは、瑞獣に代表される彫り物がメインであると思います。
特に前面に竜をもってくるところなどは、雨乞いというよりは、漁師町的に水のカミ様を意識した作りに。
本町には、霊獣としての亀だと思ったのですが、よく見ると魚とセットで、しかも反対側には鶴っぽい彫刻があったりして、治水を願う意味合いではないのか?と思ったり。
また、ほぼ全町、木鼻には、威厳を表すためか仏教美術的な施しなのかは知りませんが、唐獅子が。
桜町には獏?っぽい木鼻でおめでたい感じであります。
中村町にも獏?っぽい木鼻がありますが、彫刻の裏地の青っぽい部分と、カチコミ風の部分が謎であります。

(他の町にはない風格)
その点、奥河町はしめ縄を前方にしか締めていませんから、彫刻見放題!でして、全面、唐獅子牡丹で潔が良い!
一見すると、バリエーションが不足しているような感じもしますが、一貫したメッセージを発しているのは奥河町だけだと思います。

法話的に言うと、唐獅子牡丹の意味するものは、「安心して身を寄せられる安住の地はどこにあるか?」ということ。
めちゃめちゃ強くて怖いものなしの獅子でも、自分の体毛の中の虫だけには勝てない。しかし、牡丹から滴り落ちる夜露に濡れると虫は死んでしまうので、獅子は牡丹の下で寝るそうな。
確かに、奥河町の木鼻は、ちゃんと牡丹の下に唐獅子が休んでおりまして、他の町の木鼻(唐獅子)とは意味合いが違っているように思います。

小さい声でいいますと、奥河町は他の町よりも組み立てが少し甘くて、いつもどこかが歪んでいたりシワが寄ったりしております。だから、過去の時代、しめ縄をうっかり締め忘れてしまったのが伝わってしまい、現在のような形になっているのではないか?
とその構造的な違和感と他の町との比較をもって見ていたわけであります。
しかし、浅はかでしたm(__)m
聖と俗を仕切るしめ縄を奥河町の木鼻に引っ掛けしまうと、牡丹と獅子を隔ててしまい、そこが安住の地ではなくなってしまうおそれが。
ゆえにか、心のよりどころを守るために、あえてしめ縄を木鼻に引っ掛け巻かない方針なのではないでしょうか?
と、またもや勝手な想像をしておりまして、こういう点も考えてみたいなと思っている次第で……。
つまり、まとめますと、奥河町以外の彫刻の部分が、
「気になります!」←千反田えるっぽく
よかったら、写真など情報をお寄せ下さいm(__)m
マンガ公開しました〜。
今回は、中村町のお話し。
ついでに、キャラクター設定も追加しました。
いやはや、中村町でイメージするのは、優等生なメガネっ娘ですよね!?
演奏が得意なのは周知のとおりで、組織力が高く真面目で、流行にも敏感。
他の町がやらないようなことでも、さらりとやってのけるフットワークの軽さも( ´∀`)bグッ!
首輪は、金のしめ縄のつもりです……。

(動画:YouTubeより)
毎度ながら書いているのですが、おもしろいもので、日和佐のちょうさ(布団太鼓)は“大阪型”と“堺型”が混じったような形態をしております。
明確に「型」を断定することはできないのですが、その特徴から限りなく大阪型であるとか、限りなく堺型というふうに勝手に呼んでおります。なので、あまり真に受けないようお願い申し上げつつ、堺型の特徴である“通し柱”の補足を少し。
堺型の大きな特徴としましては、四柱が下(地面)まで通っているということです。

(掲載:祭道楽のだんじり見聞録!)
しかし、ここでミスリードしてしまいそうなのは、日和佐のちょうさが海に入ることが前提で組まれているということであります。
海に入る。すなわち、海水に浸かるために、海に入らない他の地域の屋台よりも痛みが激しく、勾欄(こうらん)から下の部分を頻繁に改修、新調してきたため、堺型特有の通し柱であるかどうかの判断がしにくくなっていると思います。
図にもあるように、堺型の柱は、縁束(えんずか)と一体化してしまって、交換することが想定されていない感じの作りであります。

一方、日和佐のそれは、海水の流れをよくするためか、下図・土呂幕(どろまく)もないほどのシンプルさなのですが、その土呂幕部分の縁葛(えんかずら)辺りにまで支柱が通っているか?いないか?という判断において、
「堺型っぽい!大阪型っぽい!!」
と呼んでいるわけです。
これに関しての解釈も、人それぞれでして、ある人は“大阪型”だといい、またある人は“堺型”だといいます。これらの解釈のズレはおそらく、だんじりの通し柱の発想(縁葛で止まっている)が布団太鼓にも持ち込まれ、わかっているのに見誤る、といった状態になっているのではないでしょうか。

(掲載:泉州泉佐野・春日町布団太鼓)
また本来は、勾欄(こうらん)や縁板(えんいた)にも細々とした彫刻が入るらしいのですが、海対策として、あえて日和佐のちょうさは彫刻を施していないというのが、真相であると思います。
ゆえにか、学術的には、日和佐のちょうさは何物でもないのかもしれませんし、大阪で一番古い布団太鼓が1855年頃のものであることを考えても、発祥の上方に原型を求めるのではなく、それよりもさらに古い日和佐の布団太鼓にこそ、原型を見ることができるのではないか?と偉そうなことを思ったり……。
ともあれ、その特有の構造によって、確認の土台と認識がズレてしまっている感じにΣ(・∀・;)
日和佐・各町の方に、通し柱のことを尋ねると、どの部分を起点にするかによって、返ってくる回答が違って、おかしいな〜?と思っていた次第であります。
ちなみに、サンプルの写真は、本町のものでありまして、まじまじ見ると、堺型っぽいちょうさであることが判明しました!
おわり。
お祭り擬人化をノリではじめて、はや三ヶ月余りが過ぎました。
当初は、ちょうさを萌えキャラにしたら怒られるのではないか?とか思ってやっておりましたが、おおむね好意的に見ていただいており感謝感激雨あられ(古)であります。
中には、ガチ祭りに萌えか!?という意見もあるかと思いますが――、
突然ながら、みなさま、ちょうさ(布団太鼓)にも雌雄があるのをご存知でしょうか?
大きく分けて、雄太(おんた)と雌太(めんた)といいまして、見分け方としましては、雄はトンボが上を向いているのに対して、雌は下や横を向いております。

(掲載:河内の銘太鼓台)
やはり、雄の方がトンボにも勢いがあるのですね\(^o^)/チ◯コみたいだー!!

(日和佐のちょうさは、すべて雌太)
一方、雌の布団太鼓は、装飾が多めに施される傾向があります。
つまり、この分類的にいいますと、日和佐のちょうさは女の子なわけでして、この辺は、確信をもって萌えキャラで差し支えないと思います。

ところがどっこい、日和佐のソレは、雌太なのに雄太のようにシンプルな形状をしており、水引幕(みずひきまく)や高欄(こうらん)、土呂幕(どろまく)がそのようなのも特徴的だと思います。
おそらく、日和佐の娘たちは海水浴(禊)をしますから、しぜん、そういう加減になっていったのではないでしょうか?
そう考えると、大阪型と堺型が混じり合い、そこへ堺系と京都系の彫刻が施される。雌雄も判然とせず、実に独自に進化したちょうさだなと思う次第でありますヽ(´エ`)ノ
日和佐の屋台は、実にガラパゴス化していて面白いですぅ。
先日、T様にいただいた『中村町太鼓年表』の昭和25年の欄に興味深いことがありました。
そこには、「調双」と書いて“ちょうさ?”と呼んだ記載があった、という記載なのですが、これはもしや「ちょうさ語源説」の新たな手がかりでしょうか?!
世間一般でいう“ちょうさ”の語源は、香川は豊浜町の『張子公(儒学者)の功績をたたえて「張さん」と呼ぶようになったのがはじまり』であるとか、七重車(しちじょうしゃ)の「七」がとれた呼び名であるとかさまざま。
ネットでたまたま見つけた南新桜というブログにも、張子公は正式には張載(ちょうさい)と呼ばれており、広島のそれもチョーサイ(長歳・長生きという意味も)と呼ぶらしいので、そうではないかと書かれております。
また、儒学の影響を受けた大塩平八郎が乱を起こすさいの記号として張子を用いたであるとか、門弟や残党が大塩平八郎を偲んで掛け声として使ったなど、収集がつかないありさま。
結局のところ、どれもこじつけの域をでなくて、スルーしてしまいそうな心境であります(ヽ´ω`)
一番しっくりくるのは、ただの掛け声という考え方で、徳大総合学科・文化人類研究室の資料にもそういうことが書いてあります。
少し引用すると、
文政4年(1821)の『浪速方言』に「てうさゃようさやてうさゃようさや、大坂にて、山車(だんじり)を挽き歩く時囃子の言葉なり」とあります。
延享2年(1745)作の歌舞伎『夏祭浪速鑑』長町裏殺しの脚本には「御輿を担ぎ出て来り、ちゃうサやちゃうサや、ようサようサようサと云ひながら舞台を廻り」とあります。
また、嘉永3年(1850)の西沢一鳳『皇都午睡』初編上の巻には「上方にて物を運ぶ掛声にゑいさやちょふさと云ふ」とあります。
つまり、この論文は、ただの掛け声と方言だ!ということで深く考えるなということでしょう。
確かに、「ちょうさじゃ」という掛け声があっても、布団太鼓を指しているわけではなくて、神輿だったり鉾だったりするのは不自然な感じもするでしょう。
お隣の淡路島では、どう見ても布団を重ねたちょうさっぽい屋台のことを“だんじり”と呼んでいるところもあるわけでして、一概に屋台のことではないようなのです。
1847年、弘化4年からの「太鼓割」には「ちょうさ」という文言がなく、すべてが「太鼓」になっております。
つまり、この時代にも存在していたであろう日和佐のソレは、“ちょうさ”という呼び名ではなかったのではないでしょうか?
堺からダイレクトに伝わり、年代的にも歴史のいわれにしても“布団太鼓”と呼んだ方がたぶん自然であろうと思うわけです。
ところがそこへ、同じ四国。讃岐型の歴史が降りてきて、しかも、大阪に出向くと「ちょうさちょうさ」と言っている。
大阪に憧れる徳島人からすれば、これは真似しないとアカン!となるのは当然の心理状態だったのかもしれません。
筆者にもおぼえがあるのですが、「よいやっさ」とか「ちょいやっさ」という掛け声と、差し上げを意味する「さっせー」が連続すると、方言独特の着崩しか、「ちょ〜いやさ〜せ〜」という音になり、しだい「ちょうさ」と聞こえるようになりました。
本来、日和佐の「ちょうさですよ〜、勇んで行きますよ〜」という「ちょうさじゃ〜、いっさんじゃい」は、そういうふうには聞こえにくいですし、差し上げ間際の掛け声など、「日和佐」という言葉をはぐらかしたような発音で自信なさげに聞こえる。「さーせーさーせー」は「やーれーさーせー」と変形して何だかよくわからない言葉に。
たぶん、こういう曖昧さの積み重ねと、ゆるやかな口伝での継承が言葉を取りこぼしているような感じです。
前置きはさておき、冒頭の「調双」とかいて“ちょうさ?”の謎なのですが――、
もしかしてだけど〜♪もしかしてだけど〜♪
「双調」と「調双」の読み間違いなんじゃないの〜?
というのが結論です。
双調(そうじょう)とは、雅楽の六調子のうちの表現方法なのだそうで、洋楽の「ハ長調」や「イ短調」といった感じでしょうか。
中村町は、太鼓の音にこだわる町なので、この頃も、どういうふうに演奏するか?ということを試行錯誤した結果、雰囲気だけでも!というノリが右書きを間違えて読ませたか、あえて右書きとして読んだ、もしくは、記録の清書で間違ったか、そういうミスへの誠実さが謎を深めている感じもしております。
豊原統秋著『体源抄』には、調子のイメージをこんな風に例えております。
○平調 春風に柳の倒れかかるごとくこれを吹くべし。
○盤渉調 何に例えつべくもなし。ただ静かに延べて吹くべし。いずれよりも、この調子を延べて吹くべし。
○黄鐘調 銚子に澄みたる酒を入れたるを見るがごとし。
○太食調 板敷きの下にてコトヒノ牛の角突きをするがごとし。
○壱越調 明障子に砂をうつがごとし。
○双調 秋草の花咲乱れたる中に幽玄なる男、大口ばかりにて優し気ながら刀を差し、柄を握りて立つごとく吹くべし。
なるほど、いわれてみれば、中村町はそういうイメージで叩いているのでしょうか?いないでしょうか?
また、これらの調子は「陰陽五行(いんようごぎょう)」にも関わりがあるそうで、それぞれに対応する季節、音、色、方角などが事細かく決まっているそうです。
ちなみに、双調は春・東方・木音・青色。ということらしく、中村町のはちまきが青っぽいのは考えすぎでしょうか(+o+)
ともあれ、おそらく、張さんとは明らかに関係のない地域でも「ちょうさ」という感じの掛け声や屋台があることを勘案すると、ただの掛け声のような気がしてなりません(=_=)
この辺は、「百一匹目のサル」ということで収まりませんかね?
先日ブログで、日和佐八幡神社のちょうさをみて、伝統が失われつつあるという旨の指摘をされている方がいた。
興味深いのでふむふむと読んでみると……、おそらく八幡神社のHPで入母屋付きの西新町のちょうさを見た後、戎濱のちょうさに名残を見出し、残っているのはここだけだ!といった感じの〆でした。
入母屋(いりもや)とは、屋根のこと言い、↓の写真のような感じです。こんなものを昔の西新町はかぶって運行していて、さぞ重たかったことでしょう。

(日和佐八幡神社:歴史写真館より)
結論からいうと、この解釈は誤りであると思います。
なぜなら、戎濱のそれは祭り前日の搬入による甘露対策の名残と、現代においては、火事へのトラウマから雨の他、日差しにも過保護になり、しかも、他所の太鼓よりも小柄なため、少しでも大きく見せようと傘をかぶっているのが真相であろうと思います。
これは、戎濱の方から聞きました。
だから、雨傘は伝統かどうかは怪しいし、なにより、西新町と桜町しかかぶっていなかったという事実が気まぐれ性を証明していると思います。新しいものが大好きで、良いものは取り入れて少しずつ変えていくという、この二町の、時代の一場面と考えた方がしっくりくるのですが――、本当のことは知りませんm(__)m

(戎濱の傘)
で、ここからが本題なのですが、そもそも、ちょうさに入母屋は必要か?ということ。
もう見慣れてしまっているので、いまさら布団の上に屋根とは妙な感じがするのですが、ちょうさの形は、実に合理的だなと思うわけです。
諸説では、なぜに布団か?と問われれば、カミ様が休むためとか、豊作を願う「田」であるともいわれております。
カミ様と交信するためには、昔から歌や煙、太鼓の音と相場が決まっており、ちょうさの場合、太鼓の音を大変貴重だった布団を五枚も重ね、その中心から天に向かって響かせているという構造なので、やはり、布団太鼓は、神輿の後をちょろちょろとついて行くだけではなくて、カミの依代だなぁと思うわけです。

少し脱線しますと、八幡神というのは他のカミ様とは少し違って、よくしゃべり、祭りが好きで、子供が好きで、腕っぷしのいい、国家鎮護のソレというイメージがあります。
だから、御旅所に連れだされても、その場でじっと座っているとは到底考えにくく、音霊を響かせながら練っているちょうさの上で祭りの見物でもしていそうな感じです。
昔々の日和佐の祭りでは、御旅所を現在の大浜海岸ではなく、軍人墓地だったり鳥居横に置いていたそうです。
境内に御旅所が置かれると、ちょうさもそこから離れるわけには行かないので、海で禊いで観客を喜ばせ、お浜入りすることができなかったようです。
しかし、先にも書いた八幡神の性格上、たぶん、御旅所などどこにあってもちょうさに寄ってくる感じがして、福田恒存ふうに言うと『物理的の必要』など適当でええやん!とか言いそうなのが、懐の深い日本のカミ様なのではないでしょうか?

そんなこんな、日和佐のちょうさは、その布団の上に天幕(てんまく)と呼ばれる目隠しみたいなものがついていて、ますます、カミ様と何やら話し込んでいるような気がするわけです。

(構造的には、たぶん要らない天幕)
なので、雨天はしかたがないとして、ちょうさの上に屋根などついていようものならば、カミとの交信が遮られ、うまくお蔭が受けられない感じもするわけでして――、私は入母屋いらないに一票!
戎濱は、もうトレードマークだから、あれはあれで( ・∀・)イイんじゃない!?
それにしても、ちょうさの形がなぜあういう風になっているのかは、かなり根深い謎のようです。
ただ、合理のまともな前提は合理以外の歴史的常識からくるものなので、日本人が日本的に生き、その構造を感じられるように時間的持続を大切にしていかなければならないのかなぁ(^O^)/と、都会の田舎かぶれをからかったりからかわなかったり……。
本日は、中村町のT様から貴重な資料を送っていただきました!
その中の写真に、ぜひとも見てみたかった初代・戎濱とかの有名な新調まもないカラフルな布団の写真まで!!
掲載許可をとってないので写真は載せず。ご了承くださいm(__)m
いや〜、実に衝撃的な姿であります。
古い写真なので、細かなところまでは確認できなかったのですが、初代は“大阪型”のように見えました。形は奥河町っぽくて旗が左右逆だったようです。
そのためか、“違い鷹の羽”の紋が“丸に右重ね違い鷹の羽”になっているのですが、やはり新調などのさいに左右が入れ替わり、そういうことは適当でよかったのかもしれません。
よく見えないのですが、シルエットの彫刻は、かなりスゴイっぽくて、戎町や西新町もビックリの出来栄えだったのではないでしょうか?
カラフルな時代は、上から布団が緑→黄色→赤→白→青。それを赤の布団締めとトンボで締めているわけで……、反対されたのもわかります(ToT)
写真では、旗が日章旗だったので、やはりいろんな意味で改革とはっちゃけと黒歴史(汗)が重なった時代だったようです。
まあ、新調後しばらくは、業者がカスタマイズに規制をかけるそうなので、ある意味、しかたがなかったのかもしれません。
他にも、中村町の年表もいただいて、いろいろと試行錯誤して現在の形になっているのだと時代の変遷を垣間見ることができました。
年表を見ていて気になったのですが、戎濱はいつ火災したのか?ということ。
日和佐八幡神社のホームページには、昭和41年と書かれているのですが、年表には43年とあります。
「どうせ書き間違いだろう……( 一一)」
とか思っていたのですが、41年も戎濱は不参加とある。理由は不明。
一応、年表を疑ってみたのですが、戎濱の方と保存会会長も43年だとおっしゃっていたので、たぶん43年火災だったのでしょう。
とすると、この2年のブランクは一体なんぞや??
謎が謎を呼ぶ、ちょうさの歴史なのでありました。
ご存知の方、いらっしゃいましたら情報よろしくお願いしますm(__)m
先日、奥河町のW氏と話し込んでいたら、なぜに中村町の「紋」が“二つ巴”なのか?という話になりました。

普通たいてい、八幡神社の祭りだから“左三つ巴”の紋が入っているはずなのに、二つとはどういうことだ!?

紋の由来は比較的簡単に検索できますが、なぜそれを使っているのかまでは、その町に聞いてみないとどうにもこうにも……。という感じの結論に (´・ω・`)
小難しい『江談抄』という物の本には、巴の数が左が三つで右が二つというふうに、太鼓の位置関係を示す決まり事だったそうです。それがいつしか、卍の向きの影響を受けて臨機応変に右回りだったり、左回りだったりして拡散したとのこと。
つまり憶測では、中村町は、八幡神社が「左」ならば、うちは「右」だ!と位置づけをするために自ら進んで基準となったのではないか?太鼓にポリシーのある町ゆえのトレースと決意表明も兼ねているのか?!と、勝手な想像で遊んでおります。
もしくは、中村町の巴の向きも独特ですが、旭日の中に「中」と書いたり、 台座のカスタマイズをしたりと、デフォルトをよしとせず、いじることが大好きなこの町特有のささいなアレンジ?だったのではないかと。

かくいう奥河町のそれも、天幕には“三つ巴”が付いているわけですが、打子の衣装にはなぜか “二つ巴”っぽいものが付いております。
W氏提供の奥河町の写真(30年前)には、今とは逆回りの巴になっていて、文献をあれこれ調べましても、 結局は気分や区別、業者の都合というふうに、けっこう適当に使っていたのではないでしょうか? 特に奥河町は、そういうところにアバウトさがあるため、なおさらどちらでもよかったのかもしれません。
ついでに書いておくと、この巴紋をつけていない町も!

例えば戎町。
戎町は日章旗と“三つ蔓柏”で打子にも同じ模様が。この三つ蔓柏は、戎濱にも付いております。 お互い漁師町だから漁業のカミ様のえべっさんにあやかっているのか、神社に関わりが深い町だったからなのか、おそらくそういう理解が有力だと思います。
ついでに言うと、戎町の額に「蛭子町」と書いているので、拝んでいるえべっさんは、大黒さんの子供の事代主神(ことしろぬしかみ)ではなく、 イザナギ・イザナミの子供である蛭子命(ひるこのみこと)だと思います。
わからないのは、戎濱のもう片方の旗にある“丸に違い鷹の羽”の紋。
どこかで見たことがあるなと思っていたのですが、 これは忠臣蔵の浅野家の紋ですよね?!元は阿蘇神社の神紋だったみたいですが、カッコイイからと旗本などに広まっていった経緯をみると、戎濱にそういう家があったのか、漁師町だから武士の勇ましさに憧れて掲げていたのか?
それとも、 “丸に違い鷹の羽”を掲げる八幡神社の方向を向いているのか?!
ぜんぜんわからん(=o=;)!
そういえば、先日の記事で、初代の戎濱のちょうさの彫刻に、金太郎だったか桃太郎が刻まれていたと書きましたが、定かではなくて、実物を見たことはありません。
当時のことを知っている地元の人も細かなところまでは覚えてない。もしかすると、忠臣蔵っぽい武芸者でも彫っていたのか?とか思ってみたりみなかったり。
桜町と本町は桜の紋が入っていますが、桜町は新興住宅地ということもあり、単なるマークとして深い意味はないとのこと。

本町に関しては、“山桜”の紋が入っているわけですが、詳細は不明。案外、当時の名家とか作者の苗字に「さ」という字が入っていただけかもしれません。
東町は、わかりやすくて“(旧)日和佐町章”に「東」を入れただけとのこと。

これは、うすうす感づいておりました^^;
1935年7月23日に日和佐町ができたみたいなので、それ以前はどんな旗だったのでしょうかね〜?
と、だらだらと語ってしまったわけですが、以上のことで何かご存知の方いらっしゃいましたら、ぜひお話をお聞かせ下さい〜m(__)m
あけましておめでとうございます。
遊び半分で始めたお祭り擬人化ですが、今年は設定資料を集めるにあたり、何やら大事になりそうな・・・(_^_)
昨年は、ちょうさ保存会会長にも貴重なお話を伺うことができ、この場を借りてお礼申し上げますm(__)m
マンガになるのは、この先の【探求編】になろうかと思いますが、気長にお待ちいただけると幸いです。
それでは、今年もあと364日となってしまいましたが――、「萌える文献」を目指してがんばるぞ!!
(今日は、日和佐八幡神社へ初詣に行ってまいりました)

(今年の祭りは、10月11日〜12日!)

(大浜海岸)

(↓八幡うるふのモデル(汗)

2014/01/01