日和佐八幡神社☆HP更新
日和佐八幡神社のホームページが、平成26年度情報に更新されております。
トップを飾るのは、戎町!!
今年の秋祭りまで、あと半年ちょっとですよ〜(/・ω・)/

お祭り擬人化とはあまり関係ないのですが、日和佐城の横に神社があるというので先日、登ってきました。


なんでも、中村町が管理しているというのでこれはなにかあるぞ!と思い、看板をつらつら読むに、ただの権現さんということで、その時はスルーしてしまったわけです。
ところが、よくよく調べると祀られているのは、オオワタツミ(海のカミ様)と知って、なるほどそうか!と一人で納得したりしなかったり。
オオワタツミとは、日和佐八幡神社でも祀られているタマヨリヒメの父親で、たぶん鴨族(賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)のことなんだろうと以前にもブログに書きました。
(※ここでいう鴨族とは、神話をトレースする以前の動きという意味であり、タマヨリヒメも海のカミ様の娘としてではありませんm(__)m
説明は省きますが、なんというか、鴨族はいろいろいて混同されやすいのと、かと思えばどこかで繋がったり、タマヨリヒメという名前も、巫女としての普通名詞と固有名詞が行ったり来たりであります)
中村町は、どこか日和佐八幡神社の三柱のうち、タマヨリヒメが好きっぽいし、城山(日和佐城)にて父親も祀ってしまうのは、鴨族の二つ巴が過去から現在に入ってきている証拠なのではないでしょうか。鴨族にかかわる神社の布団太鼓のトンボ(まくら)と中村町が同じなのもしかり。
ただ、ここでいう鴨族というのは、大三島を拠点とする人たちで、祀られているのは山のカミ様のオオヤマツミなんですよね(汗
まあ、神話的には、山と海のパワーを皇室に注入しなければならないから、この辺は、いろんな説によってぼんやりしているのかもしれません。
そういう観点から、町の人に訊いても、誰も知らないし意識したこともないそうですが、習慣や慣習は無意識に受け継いでいるものですから、たぶん、何かがあるのでしょう。
この辺は、近々、神話とかを引いて語ってみたいと思います(・∀・)
↓ここからは別に読まなくてもいいよ♪
蛇足ではありますが、人類、ルーツを辿ってしまうと、たぶんアフリカのメスゴリラなのでしょうけど、その上にいろんなエピソードが重なって、現代に伝わっているから面白いのだと思います。
確かに大和政権は、権力や正当性を誇示するために各地の豪族の話とかを習合していきましたけど、他所の国と違って日本の神話は、ニュアンスは違えど、勝手にエピソードを改ざんできないような仕組みによって編纂された日本人としての感覚的なルーツなのだと思います。
神話が真実ではないのでしょうけど、神話は真実を超えた世界を映し出していて、なが〜い歳月を経て、日本は自然発生的な国家形成をとげたために、神話でなければこの国を語れないから、神話と真実を区別しながら、歴史の背景を読みましょう!
ということを、神道史家で評論家の高森明勅も言っております。
さておきついでに、海のカミには、このオオワタツミとは別に住吉三神というのがおりますね。
この三神はイザナキが黄泉の国から逃げ帰って「橘の小戸の阿波岐原」での禊ぎによって生まれております。
イザナミとあんなことやそんなことをやって生まれたオオワタツミとは違うわけですが、ついでのついでに書いておきますと――、
「橘の小戸の阿波岐原」とは、もしかしたら宮崎ではなく徳島なんじゃないでしょうかね。
阿波の別名は、ウカノミタマ(←いなりこんこんは萌える)と混同されるオオゲツヒメでして、口やら尻から出した食べ物を高天原から追放されたスサノオに振る舞い怒らせ殺されたというカミ様であります。
なんだか、身体から出たものと徳島周辺の地名が似ていてこじつけじみて面白いです。
また、丹後の国の風土記の「奈具の社」で、天女の養父母となった和奈佐老父・和奈佐老女のルーツが、阿波国の和奈佐・海部氏(徳島県海部郡海陽町)だそうで、なんでも、古代日本の海運の中心地だったそうです。
いまでは、想像もできないですね(・∀・)
1445年東大寺伝来史料にも、海部船籍の船が、兵庫入港数が四国一であるとの記録が残っているくらいですから、「海原を治めよ」とスサノオがイザナキに命じられて降り立ったのは徳島県南か!?
なにより、島根の阿波枳閉和奈佐比古(あはきへわなさひこ)神社に阿波と和奈佐があるのが偶然すぎて( ̄□ ̄;)!!であります。忌部町とかの地名もありますしね☆彡
すると、天女も徳島からやってきたということになりますが、海原の国の氏族で行動範囲が広かったことを勘案するとなっとくしま!←(ほとんど死語)であります。
あの辺は、ワサとかナサという地名もありましたし、空海に日が昇るから「ヒワサにしとけ」と言われて今の日和佐があるわけもわかりますね。
嗚呼!なんでこんな歴史的に値打ちのある地名をしょーもない地名にしてしまったのでしょう(TдT)
合併は時代の要請なんでしょうけど、安易な名前にしてしまうと産土神の管轄もわかりにくくなるからけっこう嫌だなぁ
全国たいはんの布団太鼓は、天幕と呼ばれるものがなくて、布団の中に人が乗っていることが多いのに、なぜ日和佐の太鼓は天幕があるのか?

という疑問をああだこうだと考えて、うっかり学者肌になりそうだったのですが、組み立て風景や地元の人の話をきいていると、案外、テキトーで構造上のごまかしっぽいと思えるようになってきました(^^ゞ
画像を見ていただくと一目瞭然なのですが、筋かいの入った木枠を重ねて、

ズレないように中央でしばる。

念には念を入れて、筋かいを貫通するように棒で固定すると、なんということか!
アンテナみたいにソレがぴょこーんと出てしまう。


これはいけないと、幕でせっせと隠したらば、ちょうさおなじみ天幕だ!!
この理屈で察すれば、奥河町の天幕のバランスが悪いのは、固定する穴の位置が内側にあるのか、棒が曲がっているのかどちらかであると思います。
棒も長いから、雨が降ると天幕をとって傘をさすという感じに。あくまで推測ですが、、、。
旗についてもそうですが、戦時中の国威発揚の名残とか、いろんな時代や事情を引きずって、日和佐のちょうさは体をなしているのだと思います。
国威発揚とかきくと、思い込みでアレルギーをおこす方もいらっしゃいますが、ご先祖が舐められないように戦ってくれたおかげで、こうやってのほほんと暮らし、祭りができるわけで、我々は、歴史に生かされているということがよ〜くわかる部位でしょう。
世界は混沌としていて、商法が支配する帝国主義の時代に逆戻りしていますけど、たかだかお金儲けのために歴史とか国柄を手放さないぞ!という決意表明のために、これからも、旗は掲げてほしいと思う所存であります。
ともあれ、布団の中に乗り込んで、餅でも投げたら年寄りのギャラリーが増えてにわかに賑ずくと思いますのん(汗

(日章旗と旭日旗の奥河町)