先日、公開したマンガ記事に何か忘れている気がすると書きました。
その何かについていろいろ調べて、さぁ!やるぞ!といったところに新たな情報を耳にして振り出しに戻った感じであります(´Д`|||) ドヨーン
堺型のわりにけっこう大型で、見送り三枚板裏面に「堺彫又」の墨書があって、彫物の特徴から彫師は二代目・西岡又兵衛だと思っていたわけです。

ところが、日和佐八幡神社の宮司が営む喫茶タートルにて――、「岸和田製」であることが判明!!
ど、どういうことだ( ̄□ ̄;)!!
なんでも、岸和田の方が日和佐のソレを見て、作りの特徴から核心をもったのだという。
確かに、下だんじりでもないのに担い棒がないし、ところどころ岸和田っぽくて、わけもわからず、そのようにブログに書いた覚えがあります。
ただ当時は、箱だんじり(堺型地車)っぽい雰囲気が岸和田とごっちゃになっていたのですが、本場の方がそうおっしゃるのであれば!と、調べ直しでありますφ(..)
だんじりって奥が深いなぁ〜。
このブログは、ちょうさがメインなので深く解説しませんが、下だんじりというのは、岸和田のだんじりのことで、それ以外を上だんじりといいます。
ぱっと見の特徴は、腰まわりに担い棒という丸太の有り無し。
ところが、日和佐のソレは担い棒がなくて、でも、もともとの堺型は、正面土呂幕部分を細工して、その上部の隅に切り込みを入れて、引き出し式の担い棒(堺市内では閂と呼ばれていた)が出し入れ出来るようなものもあったのだそう。
あきらかに日和佐がソレじゃないですか!?
ということは、昔ながらの特殊な堺型を岸和田の人が勘違いしたのか、西岡(工房)の職人が岸和田で彫刻を施したのか?けっこう謎なわけです。
ご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。

(喫茶タートル)
日和佐のちょうさが志和岐へ行ったという件で、志和岐のかき太鼓の唄の資料を入手しました。
ざっと目を通してみますと、けっこう新しい感じの歌詞でしたφ(..)
但し書きに、即興で歌うこともあると書いてあるので、たぶん「さーしましょう♪」以外の部分はそれほど意味はないのかもしれません。
大阪によくある、「べーらべーら」の唄が浄瑠璃くずしで適当なのと同じなのかな?
さておき気になるのは、歌い出しの前の
まかせ・・・まかせ・・・
ちょおせ・・・どんでんどん
という部分が、伊座利の太鼓唄に似ていませんかね。
伊座利のたいこ(太鼓台)。その?:南新桜より
ちょっと調べれば同じ美波町だからわかりそうなものなのですが、それができない理由として、
ということが、最大の原因であると思います。1はしょうがないとしても、ネットで調べて写真とか動画一つ出てこないのは、後世に残すという意味では残念であると思いますm(__)m
そんなこんなで見えてくるものは、日和佐からの二次的伝播で始まったであろう志和岐の祭りは、お隣の伊座利をベースに日和佐が乗っかっているイメージ。
志和岐の太鼓は、大正末期から昭和初期頃に日和佐からやってきましたが、大正初期の伊座利の雰囲気でやっているので、挟み撃ちの二次的伝播なのかなぁと勝手に想像しているわけです。
ゆえに、日和佐からやってきたのに色キチだったりするのは、伊座利の影響でしょうか?
伊座利の太鼓は、色キチだったのがいつしか源氏をイメージして赤になり、しばしの休止後、『海部の民俗芸能フェスティバル(2012年11月25日)』への出場がきっかけで色キチ(5色)に戻ったとか。
唄にもそのことが扱われていて、赤と白の水引と幕の関係ではないというのが、おもしろいところだと思います。
結論としては、まだまだ歴史が浅いので、本気になればいくらでも情報がポロッと出てきそうな気がして、役場の支部の方とか、情報提供を呼びかけてもらえないかな〜?と思ったり(汗
日和佐八幡神社秋祭りにかかせないちょうさ
。
全国的にも稀な目的外使用の水陸両用ホバークラフト的な日和佐のちょうさなのですが、その特異性からガラパゴス化してしまい、資料が不足しております。
昔の写真やエピソードなど、ちょうさに関する情報をお寄せ下さいm(__)m

美波町観光協会の「かめたろうTV」を見ていたら、ふと目に止まった初代・戎濱のちょうさ。
初代の写真は何度か見たことがあったのですが、トンボの部分にご注目。

「トンボの先が上を向いとるー!?」
ということは、当時の戎濱は雄の“ちょうさ”だったのでしょうか\(◎o◎)/!
ちなみに、この写真は70年ほど前のものだそうで、それ以降、50年ほど前の戎濱は、トンボが下を向いていて雌になっております。
ということは、この間に性転換がはかられたのか?はたまた組み立てミスなのか??
ご存じの方いらっしゃいましたら、情報よろしくお願いしますm(__)m
(徳永かめたろう家?のタイムカプセル)
お祭り擬人化をはじめて、わりと日和佐のちょうさは観察しているつもりなのですが、どうしても十分ではないところが……。
それは、雲板部分(ふとんを受ける台)の彫刻なのですが、残念ながら、しめ縄によって完全には顕になっておりません(ToT)
桜町などしめ縄が大きすぎて全滅な次第でありまして、組み立てに関わる若連中以外は、まじまじと見る機会はないのではないでしょうか。

(しめ縄が大きすぎて彫刻が見えない(汗)
一見学者としましては、その合間からチラ見するしかないわけでして、ざっと見たところ、日和佐のちょうさは、瑞獣に代表される彫り物がメインであると思います。
特に前面に竜をもってくるところなどは、雨乞いというよりは、漁師町的に水のカミ様を意識した作りに。
本町には、霊獣としての亀だと思ったのですが、よく見ると魚とセットで、しかも反対側には鶴っぽい彫刻があったりして、治水を願う意味合いではないのか?と思ったり。
また、ほぼ全町、木鼻には、威厳を表すためか仏教美術的な施しなのかは知りませんが、唐獅子が。
桜町には獏?っぽい木鼻でおめでたい感じであります。
中村町にも獏?っぽい木鼻がありますが、彫刻の裏地の青っぽい部分と、カチコミ風の部分が謎であります。

(他の町にはない風格)
その点、奥河町はしめ縄を前方にしか締めていませんから、彫刻見放題!でして、全面、唐獅子牡丹で潔が良い!
一見すると、バリエーションが不足しているような感じもしますが、一貫したメッセージを発しているのは奥河町だけだと思います。

法話的に言うと、唐獅子牡丹の意味するものは、「安心して身を寄せられる安住の地はどこにあるか?」ということ。
めちゃめちゃ強くて怖いものなしの獅子でも、自分の体毛の中の虫だけには勝てない。しかし、牡丹から滴り落ちる夜露に濡れると虫は死んでしまうので、獅子は牡丹の下で寝るそうな。
確かに、奥河町の木鼻は、ちゃんと牡丹の下に唐獅子が休んでおりまして、他の町の木鼻(唐獅子)とは意味合いが違っているように思います。

小さい声でいいますと、奥河町は他の町よりも組み立てが少し甘くて、いつもどこかが歪んでいたりシワが寄ったりしております。だから、過去の時代、しめ縄をうっかり締め忘れてしまったのが伝わってしまい、現在のような形になっているのではないか?
とその構造的な違和感と他の町との比較をもって見ていたわけであります。
しかし、浅はかでしたm(__)m
聖と俗を仕切るしめ縄を奥河町の木鼻に引っ掛けしまうと、牡丹と獅子を隔ててしまい、そこが安住の地ではなくなってしまうおそれが。
ゆえにか、心のよりどころを守るために、あえてしめ縄を木鼻に引っ掛け巻かない方針なのではないでしょうか?
と、またもや勝手な想像をしておりまして、こういう点も考えてみたいなと思っている次第で……。
つまり、まとめますと、奥河町以外の彫刻の部分が、
「気になります!」←千反田えるっぽく
よかったら、写真など情報をお寄せ下さいm(__)m