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ちょうさに関する卒業論文を読んでみた(・∀・)

 徳島大学総合学科の学生さんが、2012年の卒業論文に日和佐の秋祭りを取り上げていたので読んでみた。

 一見、当たり前のことのように思えましたが、こうやって知識体系化されたものはなかったので、大変興味深いものでありましたm(__)m

 

2012_hiwasa.jpg

 

 この記述と写真は決定的に違うけど――、まあいいか。ちゃんちゃん♪

 

terakome_mikoshi.jpg

 

 と、終わってしまうと後学的にどうかと思うので、心を鬼にして、つついてみたいと思います。

 

 とはいえ、これを書いている人と概ね理解は同じなのですが、水との関わりについていい線までいっているので、沖縄のニライカナイ信仰とかを掘り下げて日本人の感覚を語ってほしかったのと、ワープロのせいかもしれませんが、カミ様を「神」と書いている時点で、一神教でいうGOTっぽい捉え方なのが腑に落ちなかったり。

 

 このブログでは、一応、神のことを「カミ」と表記しているのは、そういった事情からであります。

 そんなことはさておき、今後いかに継続していくべきか?という問いに関しても、少し違う意見をもっております。

 

 論文では、祭りや共同体の衰退を総じて人口減少という切り口でしか語っておらず、推移も鵜呑みでフィールドワークが活かしきれてないのが残念。地元の方も取りこぼしてきたであろうと虫食い状の資料もそのまま。

 あまりいうと関係者に怒られそうなのですが、日和佐の人口は役場発表のものの半分くらいだと思ったほうがいいでしょう。

 

 これは、消防団が日々、足で調べた日和佐の実態でありますし、いつまでもジリ貧政策をとり続けて居心地のいい人たちがいることや、おかしげな施策に対して物申す町民オンブズマン的な人たちのなさが、町の衰退を加速させる核になっていると思うわけであります。

 居住者を獲得するにしても、家主が物置代わりに貸さないし、貸しても補助金まみれの誘致に終わったりして、結局、こういうことを悪者になって言ってくれる人も不足気味。

 

 問題発言をしますと、祭りというものは、半分は氏子のためのものであり、産土神社への奉納っぽい性格でもあろうから、外部から人を呼んでくる必要はないかと(-_-)

 これを「閉鎖的」と呼ぶならば、どこか認識が違っていて、例えば、見ず知らずの人の、親戚の人の、実家で、飛び入りの誕生パーティーに参加するほどの違和感が(~o~)

 まあ、あくまで原則論ですが・・・。

 

 保存会の方々のインタビューでは、「変わらずにいるためには、変わらなければいけない」と、イタリアだったか「山猫」という映画のセリフみたいなやりとりがあります。

 それは、一面の真理でしょうけど、論文のように、人手不足の解消をPR不足と直結させ、閉鎖性の排除や説明責任、交通の便にもってゆくのは、何かが違うなと思ったわけで、それよか、町を離れた地元出身者に効くような泥臭い取り組みの方が、共同体というものは、生きてくるように思うわけです。

 

 読まれている方は、ずいぶん堅物な奴だと思われるかもしれませんけど、「型」のみが残った伝統など、伝統を壊す作用しか生みませんし、運行を至上主義に据えて外国人や女の子に担がせることを良しとしてしまうくらいであれば、断腸の思いで、幕を下ろしてほしいと傾いてゆくかもしれません。

 

 これは、乱暴な持論なのですが、文化伝統その他もろもろ、継承していくためには、どこかに政治がいるんじゃないだろうかと常々考えている次第であります( ゚Д゚)y─┛~~

 

 おわり。←けっこう真剣に考えているので怒らないでね☆彡