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入母屋は必要か?

 先日ブログで、日和佐八幡神社のちょうさをみて、伝統が失われつつあるという旨の指摘をされている方がいた。

 興味深いのでふむふむと読んでみると……、おそらく八幡神社のHPで入母屋付きの西新町のちょうさを見た後、戎濱のちょうさに名残を見出し、残っているのはここだけだ!といった感じの〆でした。

 入母屋(いりもや)とは、屋根のこと言い、↓の写真のような感じです。こんなものを昔の西新町はかぶって運行していて、さぞ重たかったことでしょう。

 

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(日和佐八幡神社:歴史写真館より)


 結論からいうと、この解釈は誤りであると思います。

 なぜなら、戎濱のそれは祭り前日の搬入による甘露対策の名残と、現代においては、火事へのトラウマから雨の他、日差しにも過保護になり、しかも、他所の太鼓よりも小柄なため、少しでも大きく見せようと傘をかぶっているのが真相であろうと思います。
 これは、戎濱の方から聞きました。

 だから、雨傘は伝統かどうかは怪しいし、なにより、西新町と桜町しかかぶっていなかったという事実が気まぐれ性を証明していると思います。新しいものが大好きで、良いものは取り入れて少しずつ変えていくという、この二町の、時代の一場面と考えた方がしっくりくるのですが――、本当のことは知りませんm(__)m

 

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(戎濱の傘)


 で、ここからが本題なのですが、そもそも、ちょうさに入母屋は必要か?ということ。

 もう見慣れてしまっているので、いまさら布団の上に屋根とは妙な感じがするのですが、ちょうさの形は、実に合理的だなと思うわけです。

 諸説では、なぜに布団か?と問われれば、カミ様が休むためとか、豊作を願う「田」であるともいわれております。
 カミ様と交信するためには、昔から太鼓の音と相場が決まっており、ちょうさの場合、太鼓の音を大変貴重だった布団を五枚も重ね、その中心から天に向かって響かせているという構造なので、やはり、布団太鼓は、神輿の後をちょろちょろとついて行くだけではなくて、カミの依代だなぁと思うわけです。

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 少し脱線しますと、八幡神というのは他のカミ様とは少し違って、よくしゃべり、祭りが好きで、子供が好きで、腕っぷしのいい、国家鎮護のソレというイメージがあります。
 だから、御旅所に連れだされても、その場でじっと座っているとは到底考えにくく、音霊を響かせながら練っているちょうさの上で祭りの見物でもしていそうな感じです。

 昔々の日和佐の祭りでは、御旅所を現在の大浜海岸ではなく、軍人墓地だったり鳥居横に置いていたそうです。
 境内に御旅所が置かれると、ちょうさもそこから離れるわけには行かないので、海で禊いで観客を喜ばせ、お浜入りすることができなかったようです。
 しかし、先にも書いた八幡神の性格上、たぶん、御旅所などどこにあってもちょうさに寄ってくる感じがして、福田恒存ふうに言うと『物理的の必要』など適当でええやん!とか言いそうなのが、懐の深い日本のカミ様なのではないでしょうか?

 

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 そんなこんな、日和佐のちょうさは、その布団の上に天幕(てんまく)と呼ばれる目隠しみたいなものがついていて、ますます、カミ様と何やら話し込んでいるような気がするわけです。

 

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(構造的には、たぶん要らない天幕)


 なので、雨天はしかたがないとして、ちょうさの上に屋根などついていようものならば、カミとの交信が遮られ、うまくお蔭が受けられない感じもするわけでして――、私は入母屋いらないに一票!
 戎濱は、もうトレードマークだから、あれはあれで( ・∀・)イイんじゃない!?

 それにしても、ちょうさの形がなぜあういう風になっているのかは、かなり根深い謎のようです。
 ただ、合理のまともな前提は合理以外の歴史的常識からくるものなので、日本人が日本的に生き、その構造を感じられるように時間的持続を大切にしていかなければならないのかなぁ(^O^)/と、都会の田舎かぶれをからかったりからかわなかったり……。