先日、奥河町のW氏と話し込んでいたら、なぜに中村町の「紋」が“二つ巴”なのか?という話になりました。
普通たいてい、八幡神社の祭りだから“左三つ巴”の紋が入っているはずなのに、二つとはどういうことだ!?

紋の由来は比較的簡単に検索できますが、なぜそれを使っているのかまでは、その町に聞いてみないとどうにもこうにも……。という感じの結論に (´・ω・`)
小難しい『江談抄』という物の本には、巴の数が左が三つで右が二つというふうに、太鼓の位置関係を示す決まり事だったそうです。それがいつしか、卍の向きの影響を受けて臨機応変に右回りだったり、左回りだったりして拡散したとのこと。
つまり憶測では、中村町は、八幡神社が「左」ならば、うちは「右」だ!と位置づけをするために自ら進んで基準となったのではないか?太鼓にポリシーのある町ゆえのトレースと決意表明も兼ねているのか?!と、勝手な想像で遊んでおります。
もしくは、中村町の巴の向きも独特ですが、旭日の中に「中」と書いたり、 台座のカスタマイズをしたりと、デフォルトをよしとせず、いじることが大好きなこの町特有のささいなアレンジ?だったのではないかと。
かくいう奥河町のそれも、天幕には“三つ巴”が付いているわけですが、打子の衣装にはなぜか “二つ巴”っぽいものが付いております。
W氏提供の奥河町の写真(30年前)には、今とは逆回りの巴になっていて、文献をあれこれ調べましても、 結局は気分や区別、業者の都合というふうに、けっこう適当に使っていたのではないでしょうか? 特に奥河町は、そういうところにアバウトさがあるため、なおさらどちらでもよかったのかもしれません。
ついでに書いておくと、この巴紋をつけていない町も!
例えば戎町。
戎町は日章旗と“三つ蔓柏”で打子にも同じ模様が。この三つ蔓柏は、戎濱にも付いております。 お互い漁師町だから漁業のカミ様のえべっさんにあやかっているのか、神社に関わりが深い町だったからなのか、おそらくそういう理解が有力だと思います。
ついでに言うと、戎町の額に「蛭子町」と書いているので、拝んでいるえべっさんは、大黒さんの子供の事代主神(ことしろぬしかみ)ではなく、 イザナギ・イザナミの子供である蛭子命(ひるこのみこと)だと思います。
わからないのは、戎濱のもう片方の旗にある“丸に違い鷹の羽”の紋。
どこかで見たことがあるなと思っていたのですが、 これは忠臣蔵の浅野家の紋ですよね?!元は阿蘇神社の神紋だったみたいですが、カッコイイからと旗本などに広まっていった経緯をみると、戎濱にそういう家があったのか、漁師町だから武士の勇ましさに憧れて掲げていたのか?
それとも、 “丸に違い鷹の羽”を掲げる八幡神社の方向を向いているのか?!
ぜんぜんわからん(=o=;)!
そういえば、先日の記事で、初代の戎濱のちょうさの彫刻に、金太郎だったか桃太郎が刻まれていたと書きましたが、定かではなくて、実物を見たことはありません。
当時のことを知っている地元の人も細かなところまでは覚えてない。もしかすると、忠臣蔵っぽい武芸者でも彫っていたのか?とか思ってみたりみなかったり。
桜町と本町は桜の紋が入っていますが、桜町は新興住宅地ということもあり、単なるマークとして深い意味はないとのこと。
本町に関しては、“山桜”の紋が入っているわけですが、詳細は不明。案外、当時の名家とか作者の苗字に「さ」という字が入っていただけかもしれません。
東町は、わかりやすくて“(旧)日和佐町章”に「東」を入れただけとのこと。
これは、うすうす感づいておりました^^;
1935年7月23日に日和佐町ができたみたいなので、それ以前はどんな旗だったのでしょうかね〜?
と、だらだらと語ってしまったわけですが、以上のことで何かご存知の方いらっしゃいましたら、ぜひお話をお聞かせ下さい〜m(__)m





